火は買える、でも編集は買えない
枝先を眺めながら、どのように編集しようか?と悩んでいます
去る2月15日の日曜日に今年から関わり始めた週末栗農園で栗の木の剪定をしました。
剪定の時期は、だいたい2月いっぱいくらいまでが目安だそうです。
先々日までの寒さの底にいるような空気から解放され、ぽかぽかした陽射しの中
枝を一つずつ確かめながら手を入れていきます。
不思議なもので、枝を落としていくほど、木がすっと呼吸をはじめるように見えてきます。
混んでいたところがほどけて、空が見える。風が通る。木が軽くなる。
「整える」って、こういうことかもしれないなと思いました。
落とした枝は、太さや状態を見ながら「柴」と「薪」に仕分けます。
その作業をしていると、ふと、昔の人は火を起こすために毎回こういう前準備をしていたんだなぁと実感しました。
火って、最初からそこにあるものじゃなくて、手をかけて、時間をかけて、ようやく手に入るものだった。
いまはスイッチひとつで温まるけど、暮らしの温かさって、本当はこういう“静かな手間”の積み重ねの上にあるんだと思います。
便利になった分だけ、見えなくなってしまった工程がある。
この日はそれを、手のひらで思い出した気がしました。
それにしても、栗の木の枝の生え方は独特でした。
まっすぐ素直に伸びるというより、クセがある。伸びたい方向がある。
だから、ただ短く切るのではなく、「この枝を残すと来年どうなるか」を想像しながら決める必要がある。
剪定は減らす作業というより、未来へ向けた編集に近い感覚です。
途中でふと、「この栗の枝、薪ストーブ用の薪として活用できるのだろうか」と考えました。
切った瞬間は“ただの枝”なのに、仕分けした瞬間に“使えるもの”になる。
捨てるか、活かすかは、見方と段取りで変わる。
暮らしには、こういう小さな転換点がいくつもあるのだと思います。
家づくりも、どこか似ています。
足すことより先に、何を残すか。何を減らすか。
暮らしが気持ちよく回るように、抵抗になるものを静かに取り除く。
派手な工夫より、地味な整え方のほうが、長い時間、暮らしを支えてくれることがある。
住まいは、特別な日のためではなく、何でもない日を支える場所。
だからこそ、派手さよりも、毎日が楽に回る整い方を大切にしたい。
木の手入れをしていて思いました。
「整える」とは、飾ることではなく、余計な抵抗をそっと外していくことなのかもしれません。
木が風を通して元気になるように、家も、光と風と熱が無理なく巡ると暮らしが軽くなります。
私たちは、派手な正解より、毎日の体感が整うことを大切にしたい。
暮らしを主役に。建築は健やかに支える。
剪定した枝を柴と薪に仕分け