芽吹きに教わる住まいの時間
芽吹き始めた栗の木々
マルチの下から顔を出したジャガイモの芽
週末、栗農園の草刈りをしました。
暖かくなってくると、雑草は驚くほどの勢いで伸びてきます。
ついこの間までは静かだった景色が、一気に動き出したような感覚です。
暫く作業を続けた後、草を刈る手を止め、ふと顔を上げると
冬の間に剪定した木々の枝先から、新しい芽が膨らみ始めているのが見えました。
あの寒い時期をじっと耐えていた木々が、確実に次の準備をしていたのだと思うと、少し背筋が伸びる思いがします。
また、昨年から始めたジャガイモ栽培も、マルチの下でしっかりと芽を伸ばしていました。
マルチを破ってやると、もやしのように白く伸びた芽が、ようやく外の世界に顔を出します。
光に触れた途端、その表情が変わるのが分かります。
植物は、ただ放っておいても育ちます。
けれど、どう育つかは、人の手のかけ方で大きく変わる。
剪定も、草刈りも、ほんの少しの介入ですが、その積み重ねが姿をつくっていきます。
この感覚は、住まいづくりにもよく似ています。
家は完成した瞬間が終わりではなく、そこから時間が流れ始めます。
暮らしの中で手をかけられ、使われ、少しずつ変化していく。
設計という仕事は、形を整えること以上に、
その先の時間の流れをどうつくるかを考えることなのかもしれません。
これからは、植物にとっても、人にとっても動きやすい季節になります。
手をかけたものが育っていく様子を見守ること。
その積み重ねこそが、豊かな暮らしなのだと感じています。
Y字の枝が呼びかけてくる
剪定した後の栗園は伐った枝の山があちこちに散らばっています。
このままでは、これから先のシーズンで草刈りの邪魔になるため、この枝の山を放置しておく訳にはいきません。伐った枝を、柴や薪に分解する作業を先日行いました。
手を動かしながら仕分けていると、ふと、少し太めの枝をそのまま残している自分に気づきました。
二股に分かれた、Y字の枝です。
特別きれいなわけでもない、真っ直ぐでもない
それでも、なぜか捨てずに手元に置いておきたくなる。
理由を考えると、その「かたち」にある気がします。
Y字という形は、不思議と安定しています。
何かを支えることもできるし、引っ掛けることもできる。
受け止めるための形、と言ってもいいかもしれません。
子供の頃、この形の枝を見つけては、先にゴムを結び、石を飛ばして遊んでいました。
いわゆる手作りのパチンコです。
あるいは、地面に差し込めば釣竿を立てる道具にもなる。
少し工夫すれば、庭の支柱や、簡単な道具掛けにもなる。
面白いのは、最初から用途を決めていたわけではないことです。
この形を見たときに、「何かに使えそうだ」と感じる。
そして後から、使い道が立ち上がってくる。
設計も、どこか似ているように思います。
敷地の形、周囲の環境、光の入り方や風の抜け方。
それらはすでにそこにある「条件」です。
設計というと、何もないところから新しいものを生み出すように見えますが、
実際には、その場所にあるものを丁寧に読み取ることから始まります。
与えられた条件の中に、すでにヒントは含まれている。
それをどう捉え、どう引き出すか。
Y字の枝を手に取って、使い道を探す感覚に、少し似ています。
既製品は、用途があらかじめ決まっています。
一方で、自然のものには、決まった使い道がありません。
だからこそ、「どう使うか」をこちらに委ねてくる。
言い換えれば、暮らしの中に余白を残してくれる存在です。
今回残したY字の枝も、まだ何に使うかは決まっていません。
けれど、手元に置いておこうと思っています。
そのうち、ふとした瞬間に、
「あ、これだ」と思える使い方に出会う気がするからです。
少しだけ、用途の決まっていないものを持っておく。
そんな余白が、暮らしをほんの少し豊かにしてくれるのかもしれません。
火は買える、でも編集は買えない
枝先を眺めながら、どのように編集しようか?と悩んでいます
去る2月15日の日曜日に今年から関わり始めた週末栗農園で栗の木の剪定をしました。
剪定の時期は、だいたい2月いっぱいくらいまでが目安だそうです。
先々日までの寒さの底にいるような空気から解放され、ぽかぽかした陽射しの中
枝を一つずつ確かめながら手を入れていきます。
不思議なもので、枝を落としていくほど、木がすっと呼吸をはじめるように見えてきます。
混んでいたところがほどけて、空が見える。風が通る。木が軽くなる。
「整える」って、こういうことかもしれないなと思いました。
落とした枝は、太さや状態を見ながら「柴」と「薪」に仕分けます。
その作業をしていると、ふと、昔の人は火を起こすために毎回こういう前準備をしていたんだなぁと実感しました。
火って、最初からそこにあるものじゃなくて、手をかけて、時間をかけて、ようやく手に入るものだった。
いまはスイッチひとつで温まるけど、暮らしの温かさって、本当はこういう“静かな手間”の積み重ねの上にあるんだと思います。
便利になった分だけ、見えなくなってしまった工程がある。
この日はそれを、手のひらで思い出した気がしました。
それにしても、栗の木の枝の生え方は独特でした。
まっすぐ素直に伸びるというより、クセがある。伸びたい方向がある。
だから、ただ短く切るのではなく、「この枝を残すと来年どうなるか」を想像しながら決める必要がある。
剪定は減らす作業というより、未来へ向けた編集に近い感覚です。
途中でふと、「この栗の枝、薪ストーブ用の薪として活用できるのだろうか」と考えました。
切った瞬間は“ただの枝”なのに、仕分けした瞬間に“使えるもの”になる。
捨てるか、活かすかは、見方と段取りで変わる。
暮らしには、こういう小さな転換点がいくつもあるのだと思います。
家づくりも、どこか似ています。
足すことより先に、何を残すか。何を減らすか。
暮らしが気持ちよく回るように、抵抗になるものを静かに取り除く。
派手な工夫より、地味な整え方のほうが、長い時間、暮らしを支えてくれることがある。
住まいは、特別な日のためではなく、何でもない日を支える場所。
だからこそ、派手さよりも、毎日が楽に回る整い方を大切にしたい。
木の手入れをしていて思いました。
「整える」とは、飾ることではなく、余計な抵抗をそっと外していくことなのかもしれません。
木が風を通して元気になるように、家も、光と風と熱が無理なく巡ると暮らしが軽くなります。
私たちは、派手な正解より、毎日の体感が整うことを大切にしたい。
暮らしを主役に。建築は健やかに支える。
剪定した枝を柴と薪に仕分け