寒かったあのスペースが長居できる場に
リノベーションしたお住まいの洗面脱衣スペース
写真は、リノベーションしたお住まいの洗面脱衣スペースです。
洗面台を計画する際、意外と見落とされがちですが、使い勝手や清掃性に大きく影響するのが「ボールの種類」です。
大きく分けると、洗面ボールは主に3つのタイプに分類されます。
・ベッセル型(置き型)
・アンダーカウンター型(天板下付け)
・オーバーカウンター型(今回採用)
今回の洗面台は「オーバーカウンタータイプ」です。
カウンターに開けた穴に上からボールを落とし込み、縁で引っかけるように納める構造です。
この形式のメリットは、カウンターとボールの取り合いがシンプルで、隙間に汚れが溜まりにくい点。
また、比較的自由に深さを確保できるため、水ハネの軽減にも寄与します。
一方で、ボールの縁がわずかにカウンターより立ち上がるため、その部分に石鹸カスや汚れが残りやすいという側面もあります。
見た目とメンテナンス性のバランスをどう取るか、このあたりが設計時の判断ポイントになります。
この空間で特徴的なのは、洗面台単体ではなく「空間全体の構成」です。
天井には木刷り板(塗り壁下地に使う板)を張り、端部にゆるやかなRをつけています。
このRの終端は壁にぴったりと付けず、あえてスリットを設け、そこに間接照明を仕込んでいます。
このディテールにはいくつか理由があります。
ひとつは、安全性。
人が手を伸ばして触れる高さではないため、R形状でもメンテナンスや使用上の問題が出にくい位置に限定しています。
もうひとつは、空間のスケール感の操作。
コンパクトになりがちな洗面脱衣室に、やわらかな変化と奥行きを与えるための仕掛けです。
直線だけで構成された空間に比べ、わずかな曲面が入ることで、視覚的な圧迫感が軽減されます。
また、黒い物干しバーを設けているのも、この空間の特徴です。
夜間に室内干しをされるとのことでしたが、
冬場でも朝にはしっかり乾いているそうです。
これは単に設備の問題ではなく、
・施した断熱対策
・空間のボリューム
・素材(木の調湿性)
・空気の流れ
といった複合的な要素が効いています。
設計としては「干せる場所をつくる」だけでなく、
「乾く環境を整える」ことまで踏み込めるかが重要です。
足元にはコルクタイルを採用しています。
水に強く、適度な弾力があるため、
素足で立ったときの冷たさや硬さを感じにくい素材です。
当事務所では水回りの足元にはコルクタイルの採用率が高く、好評です。
洗面脱衣室はどうしても機能優先になりがちですが、
こうした足触りの快適さが、日々の小さなストレスを確実に減らしてくれます。
洗面台は単体のプロダクトとして選ぶこともできますが、
本来は「空間の中でどう機能するか」を含めて設計するものです。
ボールの種類、天板との関係、光の入り方、素材の選び方。
それらが重なったときに、はじめて“使いやすさ”と“居心地”が両立します。
今回のように、ひとつひとつは小さな工夫でも、
積み重ねることで空間の質は大きく変わっていきます。
紙と布と言う選択
下駄箱の面材は和紙張りとしています
これまで下駄箱の天板や面材として、無垢材やシナ・ラワン合板を使った事例をご紹介してきました。
いわば「木をどう使うか」というお話です。
今回は少し視点を変えて、木以外の素材について触れてみたいと思います。
下駄箱の扉というと、「木でつくるもの」というイメージを持たれる方が多いかもしれません。
もちろんそれも一つの正解ですが、実は扉に求められる性能は、木でなくても十分に満たすことができます。
例えば、和紙。
紙と聞くと少し頼りない印象があるかもしれませんが、和紙は繊維が絡み合っていて、しっかりとした強度があります。
それでいて、光をやわらかく受け止める質感や、時間とともに少しずつ変化していく風合いは、木とはまた違った魅力です。
そして、紙はもともと木からつくられています。
そう考えると、木と和紙の組み合わせは、まったく別の素材というよりも、どこかつながりのある関係とも言えます。
下駄箱の面材をファブリックで仕上げた例、繊維独特の微妙な色の出方が美しい
もうひとつ、ファブリック(布)を使うという選択もあります。
布は触れたときにやわらかく、冷たさを感じにくい素材です。
毎日使う下駄箱だからこそ、こうしたちょっとした感触の違いが心地よさにつながります。
また、色や織り方によって表情を変えられるのも、布ならではの特徴です。
空間に少しだけやさしい雰囲気を加えてくれます。
木と紙、木と布。
一見すると違う素材ですが、どちらも自然から生まれたものです。
そのため、組み合わせたときにもどこか無理がなく、自然に空間になじんでいきます。
木の家だからといって、すべてを木で揃える必要はありません。
むしろ、こうした異なる素材を少し取り入れることで、木の良さがより引き立つこともあります。
素材選びは「何を使うか」だけでなく、「どう組み合わせるか」。
下駄箱のような身近な部分にも、その工夫を少し取り入れてみると、暮らしの中で感じる心地よさが変わってくるかもしれません。
木を”面”で使う選択
前回は、無垢板の下駄箱天板について書きました。
木そのものの表情や存在感を、そのまま暮らしの中に取り込むような使い方です。
一方で今回の玄関収納では、同じ“木”でも少し違う扱い方をしています。
シナベニヤやラワンベニヤといった素材を、木としてではなく「面」として扱う、という考え方です。
なぜ“面”として扱うのか
シナベニヤやラワンベニヤは、無垢材に比べて木目の主張が穏やかです。
そのため、一枚の板として見せるよりも、壁の延長のように連続した「面」として使う方が空間に馴染みます。
今回の玄関でも、収納扉を壁と一体化させることで、
玄関全体の印象をすっきりと整えることを意図しています。
特に玄関のように視覚情報が多くなりやすい場所では、
「見せる木」と「消す木」を使い分けることが重要になります。
素材ごとの特徴と使い分け
・シナベニヤ
木目が非常におとなしく、均質でクセが少ない素材です。
そのため、空間のノイズにならず、建築の輪郭を整える役割に向いています。
塗装の乗りも良く、設計意図をコントロールしやすいのも利点です。
・ラワンベニヤ
一方でラワンは、時間とともに色が深まり、味わいが増していく素材です。
新品の時はやや素朴ですが、経年変化によって空間に厚みが出てきます。
「主張しすぎないが、無機質にもならない」
そのちょうど良い中間に位置している素材と言えます。
メリットとデメリット
メリット
・大判で使えるため、面としての連続性が出せる
・コストバランスが良い
・空間全体を整理しやすい(設計的にコントロールしやすい)
デメリット
・無垢材のような強い素材感は出にくい
・エッジや小口の納まりに配慮が必要
・傷や汚れの見え方は仕上げに依存する
結びに
無垢材は、素材の力を借りて空間をつくる材料です。
一方で、シナベニヤやラワンベニヤは、空間を整えるための材料とも言えます。
どちらが良い悪いではなく、
「どこで主張させ、どこで抑えるか」というバランスの問題です。
玄関のように家の印象を決める場所では、
こうした素材の使い分けが、空間の質に大きく影響してきます。
木を使えば良い空間になるわけではありません。
むしろ、木を“どう見せないか”まで考えて初めて、空間は整います。
玄関に入った瞬間の、あの感じ
大きな屋根に守られて 玄関ホール
陽だまりで繋ぎました 玄関ホール
回って抜けて多動線の家 玄関ホール
玄関に入った瞬間、
「なんだか落ち着くな」と感じる家があります。
広いとか、新しいとか、そういう分かりやすい理由ではなくて、もっと感覚的なもの。
今回の写真の住まいも、そんな空気を持っています。
その理由のひとつが、下駄箱の天板に使った無垢の木です。
数枚の板を剥ぎ合わせて、大きな天板として仕上げています。
よく見ると、木目も色も少しずつ違っていて、均一ではありません。
でも、その“ばらつき”があるからこそ、
光が当たったときの表情に深みが出て、空間にやわらかさが生まれます。
玄関は、外から帰ってきて最初に触れる場所。
鍵や荷物を置いたり、ふと手をついたり。
そんな日常の何気ない動作の中で、
自然と木の質感に触れることになります。
最近は、こういった天板にも集成材を使うことが増えています。
寸法が安定していて、扱いやすい、とても合理的な素材です。
ただ、こうして無垢の木を使ってみると、
少しだけ“時間の流れ方”が違うように感じることがあります。
使っていくうちに少し色が変わったり、
小さな傷がついたり。
でもそれも含めて、暮らしに馴染んでいく。
玄関という場所に、そうした変化を受け止める余白があると、
家に帰る時間が、少しだけ豊かになる気がします。
無垢が良い、集成材が悪い、という話ではありません。
ただ、どこにどんな素材を使うかで、
暮らしの感じ方は変わるのだと思います。
玄関の一枚の板が、
その家の印象を静かに決めているのかもしれません。
台所で焦った!
私は普段から台所に立つ機会もあるのですが
昨日、うかつに火災報知器を鳴らしてしまいました
熱したフライパンに水を入れたことで、大量の蒸気が発生し、報知器が反応したようです
一般的に台所に設置されるのは熱感知式です
煙ではなく“温度の変化”を拾う装置です
つまり今回の作動は誤作動ではなく、設計通りの挙動です
それでも一瞬、身体は反応します
音に驚き、「何が起きたか」を確認しようとする
ただ、その次の判断は比較的冷静でした
それは、仕組みを理解していたからです
住宅設備の多くは、「知らなくても成立する」ように設計されています
それは間違いなく重要なことです
ただ一方で、「理解されない前提」で作られた環境は、トラブル時に人を不安にさせます
何が起きているのか分からない
正しい挙動なのか異常なのか判断できない
結果として、必要以上に焦る
今回のように、たとえ小さな出来事でも、その差ははっきりと現れます
建築において“性能”は重要です
しかし同時に、“理解可能性”も設計対象であるべきだと考えています
どう使われるかだけでなく、どう理解されるか
設備や空間の振る舞いに対して、住まい手が一定の解像度を持てること
それは安心の質に直結します
家はブラックボックスである必要はありません
むしろ、少しだけ中身が見えるくらいの方がいい
今回の警報音は、そのことを改めて教えてくれました
そして同時に、設計者としては
「ただ動くだけの家」ではなく、
「理解されながら使われる家」をつくる必要があると感じています
芽吹きに教わる住まいの時間
芽吹き始めた栗の木々
マルチの下から顔を出したジャガイモの芽
週末、栗農園の草刈りをしました。
暖かくなってくると、雑草は驚くほどの勢いで伸びてきます。
ついこの間までは静かだった景色が、一気に動き出したような感覚です。
暫く作業を続けた後、草を刈る手を止め、ふと顔を上げると
冬の間に剪定した木々の枝先から、新しい芽が膨らみ始めているのが見えました。
あの寒い時期をじっと耐えていた木々が、確実に次の準備をしていたのだと思うと、少し背筋が伸びる思いがします。
また、昨年から始めたジャガイモ栽培も、マルチの下でしっかりと芽を伸ばしていました。
マルチを破ってやると、もやしのように白く伸びた芽が、ようやく外の世界に顔を出します。
光に触れた途端、その表情が変わるのが分かります。
植物は、ただ放っておいても育ちます。
けれど、どう育つかは、人の手のかけ方で大きく変わる。
剪定も、草刈りも、ほんの少しの介入ですが、その積み重ねが姿をつくっていきます。
この感覚は、住まいづくりにもよく似ています。
家は完成した瞬間が終わりではなく、そこから時間が流れ始めます。
暮らしの中で手をかけられ、使われ、少しずつ変化していく。
設計という仕事は、形を整えること以上に、
その先の時間の流れをどうつくるかを考えることなのかもしれません。
これからは、植物にとっても、人にとっても動きやすい季節になります。
手をかけたものが育っていく様子を見守ること。
その積み重ねこそが、豊かな暮らしなのだと感じています。
真壁と言う選択
完全に真壁で構成した空間
最近の住まいを見ていると、構造がすっかり見えなくなったと感じることがあります。
壁の中に柱や梁を納める「大壁」が主流となり、空間は整い、性能も確保しやすくなりました。
一方で、“何でできているのか”が分かりにくい住まいが増えたとも言えるかもしれません。
そんな中で改めて考えたいのが「真壁」というつくり方です。
柱や梁をあえて見せる納め方で、木の家であることを素直に感じられる構成です。
木にとっても無理のない工法であり、長い年月の中で受け継がれてきた理由があります。
真壁の良さは、見た目の美しさだけではありません。
構造材である柱が露出していることで、後から棚を付けたり、釘を打ったりといった暮らしの変化に柔軟に対応できます。メンテナンス性の高さも見逃せないポイントです。
住まいが“完成品”ではなく、“使い続けるもの”であることを前提にしたつくり方とも言えます。
一方で、もちろん課題もあります。
壁の中に納める断熱材の厚みが制限されるため、外側に付加断熱を施すなどの工夫が必要になります。
性能と意匠の両立には、設計段階からの丁寧な検討が欠かせません。
そして設計者として最も神経を使うのは、柱や梁の「見せ方」です。
規則正しく並ぶ柱のリズムは美しさを生みますが、間取りの都合でそのリズムが崩れる“間崩れ”が生じたときに難しさが現れます。どこで揃え、どこで外すのか。その判断一つで空間の質は大きく変わります。
真壁の空間は、構造そのものが意匠になります。
つまり、構造計画とデザインを切り離して考えることができません。
同時進行で組み立てていく必要があり、設計者の力量がそのまま現れる構造だと感じています。
だからこそ、空間の要所に真壁を取り入れるという選択も有効です。
例えば、リビングの一角や、視線の抜ける場所に真壁を採用することで、木の魅力を強く感じられるポイントをつくる。現代の性能要求と折り合いをつけながら、伝統的な手法を活かすひとつの方法です。
真壁は、単なる“昔ながらの工法”ではありません。
構造と意匠が一体となる、建築の本質に近い考え方だと思います。
木を見せるということは、同時に設計の精度も問われるということ。
そこにこそ、この手法の面白さと難しさがあるのではないでしょうか。
大壁の部分と真壁の部分がミックスされた空間
加速するデジタル化
国交省から事務所に一通の封筒が届きました。
中身は「BIM(ビム)(※1)を活用した建築確認審査」に関する取組の案内です。
以前から耳にしていたものの、いよいよこの4月から本格的な運用がスタートしたとのことです。
建築業界にも、デジタル化の波が着実に、そしてなかなかの速度で押し寄せています。
■ BIM導入の現在地と、その「実感」
当事務所でもすでにBIMソフトは導入していますが、「完全に使いこなせているか?」
と問われれば、正直なところ、まだまだ道半ばというのが本音です。
しかし、実際にBIMで設計を進める中で感じるのは、「図面間の整合性」の圧倒的な高さです。
平面図を直せば、自動的に立面図や断面図、パースまでが連動する。
これまでの2次元キャドでは、一箇所の修正ミスが全体の不整合に繋がりかねませんでしたが、そのリスクが大幅に軽減されるメリットは肌で感じています。
■ 現場と審査側の「温度差」への疑問
一方で、一実務者としてふと疑問に思うこともあります。
現在、建築業界は「4号特例(※2)の廃止」や「省エネ審査の義務化」などが重なり、審査機関側もかなりの時間を要しているのが現状です。
そんな中で、さらに高度なBIM審査にまで対応しきれるのだろうか?という不安は拭えません。
「これはBIMメーカー側が国を動かして作った流れではないか?」
そんな穿った見方をしてしまう瞬間も、正直あります(笑)
■ それでも、「学び」は続いていく
とはいえ、この流れに乗ることで、お客様に対してより精度の高い、分かりやすいプレゼンテーションができるようになるのも事実です。
思えば24年前、事務所を構えた頃から今日まで、建築の世界は常に新しい技術や法改正の連続でした。
「さて、また新しく学ぶべきことが一つ増えたな」 そんな風に、少し背筋を伸ばしています。
道具が変わっても、私たちが目指す「健康で心地よい住まいづくり」の根幹は変わりません。
新しい技術をうまくツールとして取り入れながら、一歩ずつ前に進んでいきたいと思います。
(※1) BIM=建物の立体モデルをコンピューター上に作る技術
(※2)4号特例=一定の条件を満たす小規模建築物について、建築確認審査の一部を省略できる制度で、建築士が設計する4号建築物について、建築確認申請時の構造規定に関する審査が省略されていました。これにより、審査の負担が軽減され、住宅建設の効率化が図られてきました。
正しさだけが、正解とは限らない
昨今の設計事務所のSNSを見ていると、
技術的な議論がとても活発に行われています
その中には、
「これが正しい」
「それは間違っている」
「そんな設計はありえない」
といった、かなり強い言葉も少なくありません
内容を見ると、確かに筋が通っているものも多い
勉強もされているし、実務の裏付けもあるようで
だからこそ厄介だな、と感じることがあります
それは、「正しさ」がそのまま「正解」として扱われてしまうことです
建築は、条件の塊です
・寒冷地か温暖地か
・都市部か郊外か
・コストをどこに配分するか
・何を優先し、何を諦めるか
これらが少し違うだけで、最適解は簡単に入れ替わります
つまり、ある文脈では正しいことが、
別の文脈では最適ではない、ということは普通に起こり得ます
にもかかわらず、その前提が省かれたまま
「これが正解」と語られてしまうと、
それは途端に“狭い正義”になります
もうひとつ気になるのは、言葉の強さです
断定的であるほど、情報は魅力的に見えます
かつての小泉純一郎総理の演説がそうであったように
シンプルで、わかりやすいからです
しかし実際には、建築ほど単純化できない分野も珍しい
単純な言い切りの裏には、必ず削ぎ落とされた条件があります
その条件に触れないままの発信は、
たとえ内容が正しくても、
受け手にとってはノイズになり得ると思うのです
もちろん、誤った情報を発信することは論外です
ただ、「正しいが排他的」な発信もまた、
住まい手にとっては別の意味で判断を歪めます
選択肢が狭められ、思考が止まるからです
設計とは、本来もっと不確定で、
もっと幅のある営みです
正解を提示する仕事ではなく、
条件を読み解きながら、最適解を編み上げていく仕事
そこには必ず「余白」があります
だからこそ、強い言葉に出会ったときほど、
少し距離を取ってみることが大切だと思います
それは本当に“普遍的な正解”なのか
それとも“特定の条件下での最適解”なのか
その見極めが、これからの住まいづくりには必要になってくるはずです
私たちは、ひとつの正解を掲げるよりも、
複数の可能性を丁寧に扱う設計でありたいと思っています
遠回りに見えるかもしれませんが、
その方が結果として、豊かな住まいに近づくと考えているからです
解釈の余白
Chat GPT が描いた成果物
Geminiが描いた成果物
先日、ちょっとした実験をしてみました。
同じ写真を使って、同じ言葉で、
AIに「劇画調のイラスト」を描いてもらう。
お願いした相手は2つ。
ChatGPTとGeminiです。
条件はまったく同じです。
ですが、出来上がった絵は――
思っていた以上に違うものでした。
ひとつは、どこかやわらかく、少し優しい表情。
もうひとつは、輪郭がはっきりしていて、少しいかつい印象。
「同じことを頼んだのに、どうしてこうなるんだろう?」
最初は単純に不思議でしたが、
眺めているうちに、なんだか既視感のある感覚だなと思いました。
人でも、同じことが起きている
例えば、こんなことはないでしょうか。
同じ料理のレシピを見て作ったのに、
人によって少し味が違う。
同じ家具を置いているのに、
部屋の雰囲気がまったく違う。
同じ言葉を聞いても、
受け取り方が人それぞれ違う。
よく考えてみると、
「同じ条件なのに違う結果になる」ことは、
暮らしの中にたくさんあります。
“その人なりの解釈”が入るから違う
AIの絵も同じでした。
「劇画調」とひとことで言っても、
どこまで強くするのか、どこを強調するのかは決まっていません。
だから、それぞれのAIが
“それらしい”と思う形に整えていく。
少しやわらかくするのか、
少し迫力を出すのか。
その違いが、そのまま絵の違いになっていました。
暮らしも、実は同じつくり方をしている
この感覚、住まいづくりにもとてもよく似ています。
「明るい家がいい」
「落ち着く空間がいい」
こういった言葉はよく出てきますが、
実はとても幅のある表現です。
光をたくさん入れて明るくする人もいれば、
素材や色味で明るさを感じさせる人もいる。
静かな空間で落ち着きをつくる人もいれば、
好きなものに囲まれることで落ち着く人もいる。
同じ言葉でも、
その人なりのイメージが少しずつ違っているんですね。
“ぴったりくる感じ”はどこから来るのか
住まいに入ったときに感じる、
なんとなく「いいな」と思う空気。
あれは、性能や広さだけではなくて、
こうした“解釈の積み重ね”から生まれている気がします。
どこまで明るくするのか。
どこを少し抑えるのか。
何を強調して、何を引き算するのか。
そうした細かな選択が重なって、
その家ならではの空気になります。
正解を探すというより、すり合わせていく
今回のAIの絵には、
どちらが正しいという答えはありませんでした。
やわらかい表情も良いし、
いかつい表情も良い。
ただ、「どちらが好きか」は人によって違う。
住まいづくりも、きっと同じです。
正解を見つけるというよりも、
「どんな感じが心地いいのか」を少しずつすり合わせていく。
小さな実験でしたが、
改めてそんなことを考えるきっかけになりました。
同じ条件でも、出来上がりはひとつではない。
だからこそ、
自分にとってしっくりくるものを、丁寧に選んでいく。
そんな積み重ねが、
暮らしを形づくっていくのだと思います。
設計事務所との家づくりという選択
こうして考えてみると、
住まいづくりは「正解を当てる作業」ではなく、
自分たちにとっての“ちょうどいい解釈”を見つけていく過程なのだと思います。
そしてその過程には、
必ず“人”が関わってきます。
同じ要望でも、
受け取る側によって、考え方や組み立て方は少しずつ違う。
だからこそ設計事務所との家づくりは、
出来上がる形だけでなく、
その途中の対話そのものに意味があります。
言葉をそのまま形にしないということ
「明るい家がいい」
「落ち着く場所にしたい」
そういった言葉を、
そのまま単純に形にするのではなく、
・なぜ明るさが欲しいのか
・どんなときに落ち着くと感じるのか
そうした背景まで一緒に考えていく。
少し遠回りのようでいて、
実はそのほうが、結果としてしっくりくる形に近づきます。
違いがあるからこそ、見えてくるもの
今回のAIの実験のように、
同じ条件でも違う答えが出てくるからこそ、
「自分はどちらが好きなのか」
「どんな雰囲気が心地いいのか」
そういった感覚が、少しずつ輪郭を持ってきます。
設計の打合せも、
まさにそんな時間の積み重ねです。
一緒につくるということ
家づくりは、完成した建物だけでなく、
そこに至るまでのプロセスも含めての体験だと思います。
話しながら、迷いながら、
少しずつ方向を見つけていく。
その積み重ねが、
「なんとなくいい」ではなく、
「これがいい」と思える住まいにつながっていく。
同じから始まって、違いが生まれる。
その違いを面白がりながら、
自分たちにとってのかたちを見つけていく。
そんな家づくりも、
悪くないのではないでしょうか。
もう少し具体的に考えてみたい方へ
ここまで読んでいただいて、
「自分たちの場合だとどうなるんだろう」と感じられた方もいらっしゃるかもしれません。
住まいづくりは、条件が似ていても、
最終的なかたちは本当に人それぞれです。
もし、ぼんやりとしたイメージの段階でも、
「こんな感じが好きかもしれない」という感覚があれば、
それは十分に家づくりの出発点になります。
これまでの事例について
実際の設計事例でも、
最初から明確な答えがあったわけではなく、
・会話の中で少しずつ輪郭が見えてきたもの
・選択肢を並べながら方向性を探っていったもの
そういったプロセスを経て、かたちになっています。
もしよろしければ、
過去の事例もいくつかご覧いただくと、
その違いの面白さを感じていただけるかもしれません。
気軽なご相談について
具体的な計画がまだ先の場合でも、
「こういう考え方ってどうなんだろう?」といった段階から、
お話しすることは可能です。
はっきりとした要望がなくても大丈夫ですので、
少し気になることがあれば、気軽にお声がけください。
住まいづくりは、
最初から答えを持っている必要はありません。
むしろ、対話の中で少しずつ見えてくるものの方が、
あとから振り返ったときにしっくりくることが多いように思います。
今回の小さな実験のように、
同じところから始まっても、出来上がりはひとつではない。
だからこそ、
その過程も含めて楽しめると、
家づくりはより豊かなものになるのではないでしょうか。
私が「100年後の心地よさ」を設計する理由
今日、3月30日は、あの情熱の画家、フィンセント・ファン・ゴッホの誕生日
と言うことを朝、車が教えてくれたアナウンスで知りました。
つい最近までゴッホに関する小説などを数冊読んでいたこともあり、ブログにしたためてみました。
ゴッホといえば、生前はたった1枚の絵しか売れなかったというエピソードが有名ですね。
対照的に、同時代の天才ピカソは、存命中にその類まれな商才を発揮し、巨万の富を築きました。
ビジネスの視点で見れば、ピカソこそが「成功者」であり、ゴッホは「不遇の人」と評価されがちです。
しかし、没後100年以上経った今もなお、私たちの心を揺さぶり続けているのは、どちらでしょうか。
ふと、建築の世界に身を置く一人の人間として考えさせられます。
「果たして、どちらの人生が幸せだったのだろうか」と
遺された価値を「伝える人」の存在
ゴッホの死後、彼の作品が世界中に広まったのは、弟テオの妻であるヨハンナの献身的な努力があったからだと言われています。
彼女がゴッホの書簡を整理し、展覧会を開き続けたからこそ、彼の純粋な情熱は「永遠の価値」として現代に届いています。
これ、実は「家づくり」にも通じるものがあるんです。
私たち建築設計者の仕事は、家が完成した瞬間がゴールではありません。
その家で営まれる日々の暮らしを、住まい手の方が慈しみ、大切に住み継いでくださる。
その「愛着」というリレーがあって初めて、建築は本当の意味で「価値ある場所」になっていくのだと感じます。
「ピカソの戦略」と「ゴッホの誠実」
もし家づくりをこの二人に例えるなら、ピカソ的な視点は「資産価値やトレンドを捉える賢さ」と言えるかもしれません。
もちろん、それはプロとして不可欠な要素です。
一方で、ゴッホ的な視点は「誰に言われずとも、己が信じる正解を追求する誠実さ」ではないでしょうか。
私が意識を傾けている「地元の木を使うこと」や「室温をあと2度上げて、健康寿命を4年延ばす設計」
これらは、一見すると地味で、派手な広告にはなりにくい部分です。
しかし、この「身体への優しさ」こそが、住む人の30年後、50年後の幸せを支えると確信しています。
世間の流行に合わせる「商売」としての建築ではなく、住む人の命の質を高めるための「探求」としての建築。
私は、たとえ目立たなくても、後者のような「静かな誠実さ」を大切にしたいのです。
建築は、静かに支える。
「どちらの人生が幸せだったか」という問いに正解はありません。
ただ、私にとっての「成功」は、私がこの世を去ったずっと後でも、丹波のこの場所で、ご家族が「この家は本当に温かいね」「この木の色がいいね」と、健康に、笑顔で暮らしてくださっていることです。
暮らしを主役に、建築は静かに支える。
ゴッホの誕生日に、そんな原点を改めて噛み締めています。
春の柔らかな光が差し込む家で、皆様が健やかな一日を過ごされますように。
今回のイラストはゴッホをイメージしてAIにプロンプトを与えて生成させた画像です。
2枚目は短かった幸せなひと時、弟テオやその奥さん、画家仲間のゴーギャンらに囲まれて過ごしている様子です。
正解は変わる - 外野守備と設計の話 -
突然ですが、高校時代、私は硬式野球部で外野を守っていました。
自身のポジションを超えそうな高く上がったフライを追うとき、必ず言われていたことがあります。
それは、「一度ボールから目を切れ」という指導でした。
打球が自分の頭を越えそうなとき、ずっとボールを見続けていると初動が遅れる。
だから一瞬視線を外し、落下地点を予測して、そこまで最短距離で走る。
そこからもう一度ボールを捉えて捕球する。
最初は捕れなかった打球を当然のように捕れるようになるまで、何度も練習を繰り返しました。
当時の自分にとっては、それが“正しい外野守備”でした。
疑うこともなく、体に染み込ませてきた感覚です。
ところが最近、テレビで見た番組で、少し驚く場面がありました。
日本ハムの新庄剛監督が、「ボールから目を離すな」と指導していたのです。
かつて自分が教わったこととは、真逆のアプローチでした。
最初は単純に違和感がありました。
本当にそれで間に合うのか、効率がいいのか、と
しかし同時に、それが今の主流になりつつあるという話も耳にしました。
技術や身体能力、あるいはトレーニングの前提が変われば、合理的な動きも変わる。
そう考えると、どちらが正しい・間違っているという話ではなく、「前提が変われば正解も変わる」という、当たり前のことに改めて気づかされました。
この感覚は、建築にもよく似ていて
例えば、少し前まで当たり前とされてきたこと。
南向きが良い、部屋は6畳以上、窓は大きく、風通しを確保する——。
どれも間違いではありませんし、今でも有効な場面は多くあります。
ただ、それらが生まれた背景には、その時代の技術や暮らし方があります。
断熱性能が十分でなかった時代。
空調設備が今ほど発達していなかった時代。
家族の在り方や生活時間が比較的画一的だった時代
そうした前提の中では、それらは確かに合理的な“正解”でした。
一方で現在は、断熱や気密の性能は大きく向上し、空調も進化しています。
働き方や家での過ごし方も、多様になりました。
その中で、昔の定石をそのままなぞることが、必ずしも最適とは限らなくなっています。
外野守備で言えば、「落下地点を先に読む」のか「ボールを見続ける」のか
それは理論の優劣というよりも、“今の前提に対してどちらが合理的か”という問題です。
設計も同じです。
過去の知見を否定するわけではありません。
むしろそれは大切な蓄積です。
ただし、それを無自覚に前提としてしまうと、今の暮らしに対して少しずれた提案になってしまうことがあります。
だからこそ、一度立ち止まって考えます。
それは本当に、今の条件に対して最適なのか。
家づくりには、「なんとなくそういうものだから」という判断が意外と多くあります。
けれど、その“なんとなくの常識”が、いつの時代のものなのかを見直してみることは、とても重要です。
昔からそうだから、ではなく。
今の暮らしに合っているかどうか。
外野でフライを追いかけていた頃の感覚を思い出しながら、そんなことを考えています。
一度、ボールから目を離すのか。
それとも、最後まで見続けるのか。
設計もまた、その選択の連続なのだと思います。