真壁と言う選択
完全に真壁で構成した空間
最近の住まいを見ていると、構造がすっかり見えなくなったと感じることがあります。
壁の中に柱や梁を納める「大壁」が主流となり、空間は整い、性能も確保しやすくなりました。
一方で、“何でできているのか”が分かりにくい住まいが増えたとも言えるかもしれません。
そんな中で改めて考えたいのが「真壁」というつくり方です。
柱や梁をあえて見せる納め方で、木の家であることを素直に感じられる構成です。
木にとっても無理のない工法であり、長い年月の中で受け継がれてきた理由があります。
真壁の良さは、見た目の美しさだけではありません。
構造材である柱が露出していることで、後から棚を付けたり、釘を打ったりといった暮らしの変化に柔軟に対応できます。メンテナンス性の高さも見逃せないポイントです。
住まいが“完成品”ではなく、“使い続けるもの”であることを前提にしたつくり方とも言えます。
一方で、もちろん課題もあります。
壁の中に納める断熱材の厚みが制限されるため、外側に付加断熱を施すなどの工夫が必要になります。
性能と意匠の両立には、設計段階からの丁寧な検討が欠かせません。
そして設計者として最も神経を使うのは、柱や梁の「見せ方」です。
規則正しく並ぶ柱のリズムは美しさを生みますが、間取りの都合でそのリズムが崩れる“間崩れ”が生じたときに難しさが現れます。どこで揃え、どこで外すのか。その判断一つで空間の質は大きく変わります。
真壁の空間は、構造そのものが意匠になります。
つまり、構造計画とデザインを切り離して考えることができません。
同時進行で組み立てていく必要があり、設計者の力量がそのまま現れる構造だと感じています。
だからこそ、空間の要所に真壁を取り入れるという選択も有効です。
例えば、リビングの一角や、視線の抜ける場所に真壁を採用することで、木の魅力を強く感じられるポイントをつくる。現代の性能要求と折り合いをつけながら、伝統的な手法を活かすひとつの方法です。
真壁は、単なる“昔ながらの工法”ではありません。
構造と意匠が一体となる、建築の本質に近い考え方だと思います。
木を見せるということは、同時に設計の精度も問われるということ。
そこにこそ、この手法の面白さと難しさがあるのではないでしょうか。
大壁の部分と真壁の部分がミックスされた空間
加速するデジタル化
国交省から事務所に一通の封筒が届きました。
中身は「BIM(ビム)(※1)を活用した建築確認審査」に関する取組の案内です。
以前から耳にしていたものの、いよいよこの4月から本格的な運用がスタートしたとのことです。
建築業界にも、デジタル化の波が着実に、そしてなかなかの速度で押し寄せています。
■ BIM導入の現在地と、その「実感」
当事務所でもすでにBIMソフトは導入していますが、「完全に使いこなせているか?」
と問われれば、正直なところ、まだまだ道半ばというのが本音です。
しかし、実際にBIMで設計を進める中で感じるのは、「図面間の整合性」の圧倒的な高さです。
平面図を直せば、自動的に立面図や断面図、パースまでが連動する。
これまでの2次元キャドでは、一箇所の修正ミスが全体の不整合に繋がりかねませんでしたが、そのリスクが大幅に軽減されるメリットは肌で感じています。
■ 現場と審査側の「温度差」への疑問
一方で、一実務者としてふと疑問に思うこともあります。
現在、建築業界は「4号特例(※2)の廃止」や「省エネ審査の義務化」などが重なり、審査機関側もかなりの時間を要しているのが現状です。
そんな中で、さらに高度なBIM審査にまで対応しきれるのだろうか?という不安は拭えません。
「これはBIMメーカー側が国を動かして作った流れではないか?」
そんな穿った見方をしてしまう瞬間も、正直あります(笑)
■ それでも、「学び」は続いていく
とはいえ、この流れに乗ることで、お客様に対してより精度の高い、分かりやすいプレゼンテーションができるようになるのも事実です。
思えば24年前、事務所を構えた頃から今日まで、建築の世界は常に新しい技術や法改正の連続でした。
「さて、また新しく学ぶべきことが一つ増えたな」 そんな風に、少し背筋を伸ばしています。
道具が変わっても、私たちが目指す「健康で心地よい住まいづくり」の根幹は変わりません。
新しい技術をうまくツールとして取り入れながら、一歩ずつ前に進んでいきたいと思います。
(※1) BIM=建物の立体モデルをコンピューター上に作る技術
(※2)4号特例=一定の条件を満たす小規模建築物について、建築確認審査の一部を省略できる制度で、建築士が設計する4号建築物について、建築確認申請時の構造規定に関する審査が省略されていました。これにより、審査の負担が軽減され、住宅建設の効率化が図られてきました。
正しさだけが、正解とは限らない
昨今の設計事務所のSNSを見ていると、
技術的な議論がとても活発に行われています
その中には、
「これが正しい」
「それは間違っている」
「そんな設計はありえない」
といった、かなり強い言葉も少なくありません
内容を見ると、確かに筋が通っているものも多い
勉強もされているし、実務の裏付けもあるようで
だからこそ厄介だな、と感じることがあります
それは、「正しさ」がそのまま「正解」として扱われてしまうことです
建築は、条件の塊です
・寒冷地か温暖地か
・都市部か郊外か
・コストをどこに配分するか
・何を優先し、何を諦めるか
これらが少し違うだけで、最適解は簡単に入れ替わります
つまり、ある文脈では正しいことが、
別の文脈では最適ではない、ということは普通に起こり得ます
にもかかわらず、その前提が省かれたまま
「これが正解」と語られてしまうと、
それは途端に“狭い正義”になります
もうひとつ気になるのは、言葉の強さです
断定的であるほど、情報は魅力的に見えます
かつての小泉純一郎総理の演説がそうであったように
シンプルで、わかりやすいからです
しかし実際には、建築ほど単純化できない分野も珍しい
単純な言い切りの裏には、必ず削ぎ落とされた条件があります
その条件に触れないままの発信は、
たとえ内容が正しくても、
受け手にとってはノイズになり得ると思うのです
もちろん、誤った情報を発信することは論外です
ただ、「正しいが排他的」な発信もまた、
住まい手にとっては別の意味で判断を歪めます
選択肢が狭められ、思考が止まるからです
設計とは、本来もっと不確定で、
もっと幅のある営みです
正解を提示する仕事ではなく、
条件を読み解きながら、最適解を編み上げていく仕事
そこには必ず「余白」があります
だからこそ、強い言葉に出会ったときほど、
少し距離を取ってみることが大切だと思います
それは本当に“普遍的な正解”なのか
それとも“特定の条件下での最適解”なのか
その見極めが、これからの住まいづくりには必要になってくるはずです
私たちは、ひとつの正解を掲げるよりも、
複数の可能性を丁寧に扱う設計でありたいと思っています
遠回りに見えるかもしれませんが、
その方が結果として、豊かな住まいに近づくと考えているからです
解釈の余白
Chat GPT が描いた成果物
Geminiが描いた成果物
先日、ちょっとした実験をしてみました。
同じ写真を使って、同じ言葉で、
AIに「劇画調のイラスト」を描いてもらう。
お願いした相手は2つ。
ChatGPTとGeminiです。
条件はまったく同じです。
ですが、出来上がった絵は――
思っていた以上に違うものでした。
ひとつは、どこかやわらかく、少し優しい表情。
もうひとつは、輪郭がはっきりしていて、少しいかつい印象。
「同じことを頼んだのに、どうしてこうなるんだろう?」
最初は単純に不思議でしたが、
眺めているうちに、なんだか既視感のある感覚だなと思いました。
人でも、同じことが起きている
例えば、こんなことはないでしょうか。
同じ料理のレシピを見て作ったのに、
人によって少し味が違う。
同じ家具を置いているのに、
部屋の雰囲気がまったく違う。
同じ言葉を聞いても、
受け取り方が人それぞれ違う。
よく考えてみると、
「同じ条件なのに違う結果になる」ことは、
暮らしの中にたくさんあります。
“その人なりの解釈”が入るから違う
AIの絵も同じでした。
「劇画調」とひとことで言っても、
どこまで強くするのか、どこを強調するのかは決まっていません。
だから、それぞれのAIが
“それらしい”と思う形に整えていく。
少しやわらかくするのか、
少し迫力を出すのか。
その違いが、そのまま絵の違いになっていました。
暮らしも、実は同じつくり方をしている
この感覚、住まいづくりにもとてもよく似ています。
「明るい家がいい」
「落ち着く空間がいい」
こういった言葉はよく出てきますが、
実はとても幅のある表現です。
光をたくさん入れて明るくする人もいれば、
素材や色味で明るさを感じさせる人もいる。
静かな空間で落ち着きをつくる人もいれば、
好きなものに囲まれることで落ち着く人もいる。
同じ言葉でも、
その人なりのイメージが少しずつ違っているんですね。
“ぴったりくる感じ”はどこから来るのか
住まいに入ったときに感じる、
なんとなく「いいな」と思う空気。
あれは、性能や広さだけではなくて、
こうした“解釈の積み重ね”から生まれている気がします。
どこまで明るくするのか。
どこを少し抑えるのか。
何を強調して、何を引き算するのか。
そうした細かな選択が重なって、
その家ならではの空気になります。
正解を探すというより、すり合わせていく
今回のAIの絵には、
どちらが正しいという答えはありませんでした。
やわらかい表情も良いし、
いかつい表情も良い。
ただ、「どちらが好きか」は人によって違う。
住まいづくりも、きっと同じです。
正解を見つけるというよりも、
「どんな感じが心地いいのか」を少しずつすり合わせていく。
小さな実験でしたが、
改めてそんなことを考えるきっかけになりました。
同じ条件でも、出来上がりはひとつではない。
だからこそ、
自分にとってしっくりくるものを、丁寧に選んでいく。
そんな積み重ねが、
暮らしを形づくっていくのだと思います。
設計事務所との家づくりという選択
こうして考えてみると、
住まいづくりは「正解を当てる作業」ではなく、
自分たちにとっての“ちょうどいい解釈”を見つけていく過程なのだと思います。
そしてその過程には、
必ず“人”が関わってきます。
同じ要望でも、
受け取る側によって、考え方や組み立て方は少しずつ違う。
だからこそ設計事務所との家づくりは、
出来上がる形だけでなく、
その途中の対話そのものに意味があります。
言葉をそのまま形にしないということ
「明るい家がいい」
「落ち着く場所にしたい」
そういった言葉を、
そのまま単純に形にするのではなく、
・なぜ明るさが欲しいのか
・どんなときに落ち着くと感じるのか
そうした背景まで一緒に考えていく。
少し遠回りのようでいて、
実はそのほうが、結果としてしっくりくる形に近づきます。
違いがあるからこそ、見えてくるもの
今回のAIの実験のように、
同じ条件でも違う答えが出てくるからこそ、
「自分はどちらが好きなのか」
「どんな雰囲気が心地いいのか」
そういった感覚が、少しずつ輪郭を持ってきます。
設計の打合せも、
まさにそんな時間の積み重ねです。
一緒につくるということ
家づくりは、完成した建物だけでなく、
そこに至るまでのプロセスも含めての体験だと思います。
話しながら、迷いながら、
少しずつ方向を見つけていく。
その積み重ねが、
「なんとなくいい」ではなく、
「これがいい」と思える住まいにつながっていく。
同じから始まって、違いが生まれる。
その違いを面白がりながら、
自分たちにとってのかたちを見つけていく。
そんな家づくりも、
悪くないのではないでしょうか。
もう少し具体的に考えてみたい方へ
ここまで読んでいただいて、
「自分たちの場合だとどうなるんだろう」と感じられた方もいらっしゃるかもしれません。
住まいづくりは、条件が似ていても、
最終的なかたちは本当に人それぞれです。
もし、ぼんやりとしたイメージの段階でも、
「こんな感じが好きかもしれない」という感覚があれば、
それは十分に家づくりの出発点になります。
これまでの事例について
実際の設計事例でも、
最初から明確な答えがあったわけではなく、
・会話の中で少しずつ輪郭が見えてきたもの
・選択肢を並べながら方向性を探っていったもの
そういったプロセスを経て、かたちになっています。
もしよろしければ、
過去の事例もいくつかご覧いただくと、
その違いの面白さを感じていただけるかもしれません。
気軽なご相談について
具体的な計画がまだ先の場合でも、
「こういう考え方ってどうなんだろう?」といった段階から、
お話しすることは可能です。
はっきりとした要望がなくても大丈夫ですので、
少し気になることがあれば、気軽にお声がけください。
住まいづくりは、
最初から答えを持っている必要はありません。
むしろ、対話の中で少しずつ見えてくるものの方が、
あとから振り返ったときにしっくりくることが多いように思います。
今回の小さな実験のように、
同じところから始まっても、出来上がりはひとつではない。
だからこそ、
その過程も含めて楽しめると、
家づくりはより豊かなものになるのではないでしょうか。
私が「100年後の心地よさ」を設計する理由
今日、3月30日は、あの情熱の画家、フィンセント・ファン・ゴッホの誕生日
と言うことを朝、車が教えてくれたアナウンスで知りました。
つい最近までゴッホに関する小説などを数冊読んでいたこともあり、ブログにしたためてみました。
ゴッホといえば、生前はたった1枚の絵しか売れなかったというエピソードが有名ですね。
対照的に、同時代の天才ピカソは、存命中にその類まれな商才を発揮し、巨万の富を築きました。
ビジネスの視点で見れば、ピカソこそが「成功者」であり、ゴッホは「不遇の人」と評価されがちです。
しかし、没後100年以上経った今もなお、私たちの心を揺さぶり続けているのは、どちらでしょうか。
ふと、建築の世界に身を置く一人の人間として考えさせられます。
「果たして、どちらの人生が幸せだったのだろうか」と
遺された価値を「伝える人」の存在
ゴッホの死後、彼の作品が世界中に広まったのは、弟テオの妻であるヨハンナの献身的な努力があったからだと言われています。
彼女がゴッホの書簡を整理し、展覧会を開き続けたからこそ、彼の純粋な情熱は「永遠の価値」として現代に届いています。
これ、実は「家づくり」にも通じるものがあるんです。
私たち建築設計者の仕事は、家が完成した瞬間がゴールではありません。
その家で営まれる日々の暮らしを、住まい手の方が慈しみ、大切に住み継いでくださる。
その「愛着」というリレーがあって初めて、建築は本当の意味で「価値ある場所」になっていくのだと感じます。
「ピカソの戦略」と「ゴッホの誠実」
もし家づくりをこの二人に例えるなら、ピカソ的な視点は「資産価値やトレンドを捉える賢さ」と言えるかもしれません。
もちろん、それはプロとして不可欠な要素です。
一方で、ゴッホ的な視点は「誰に言われずとも、己が信じる正解を追求する誠実さ」ではないでしょうか。
私が意識を傾けている「地元の木を使うこと」や「室温をあと2度上げて、健康寿命を4年延ばす設計」
これらは、一見すると地味で、派手な広告にはなりにくい部分です。
しかし、この「身体への優しさ」こそが、住む人の30年後、50年後の幸せを支えると確信しています。
世間の流行に合わせる「商売」としての建築ではなく、住む人の命の質を高めるための「探求」としての建築。
私は、たとえ目立たなくても、後者のような「静かな誠実さ」を大切にしたいのです。
建築は、静かに支える。
「どちらの人生が幸せだったか」という問いに正解はありません。
ただ、私にとっての「成功」は、私がこの世を去ったずっと後でも、丹波のこの場所で、ご家族が「この家は本当に温かいね」「この木の色がいいね」と、健康に、笑顔で暮らしてくださっていることです。
暮らしを主役に、建築は静かに支える。
ゴッホの誕生日に、そんな原点を改めて噛み締めています。
春の柔らかな光が差し込む家で、皆様が健やかな一日を過ごされますように。
今回のイラストはゴッホをイメージしてAIにプロンプトを与えて生成させた画像です。
2枚目は短かった幸せなひと時、弟テオやその奥さん、画家仲間のゴーギャンらに囲まれて過ごしている様子です。
正解は変わる - 外野守備と設計の話 -
突然ですが、高校時代、私は硬式野球部で外野を守っていました。
自身のポジションを超えそうな高く上がったフライを追うとき、必ず言われていたことがあります。
それは、「一度ボールから目を切れ」という指導でした。
打球が自分の頭を越えそうなとき、ずっとボールを見続けていると初動が遅れる。
だから一瞬視線を外し、落下地点を予測して、そこまで最短距離で走る。
そこからもう一度ボールを捉えて捕球する。
最初は捕れなかった打球を当然のように捕れるようになるまで、何度も練習を繰り返しました。
当時の自分にとっては、それが“正しい外野守備”でした。
疑うこともなく、体に染み込ませてきた感覚です。
ところが最近、テレビで見た番組で、少し驚く場面がありました。
日本ハムの新庄剛監督が、「ボールから目を離すな」と指導していたのです。
かつて自分が教わったこととは、真逆のアプローチでした。
最初は単純に違和感がありました。
本当にそれで間に合うのか、効率がいいのか、と
しかし同時に、それが今の主流になりつつあるという話も耳にしました。
技術や身体能力、あるいはトレーニングの前提が変われば、合理的な動きも変わる。
そう考えると、どちらが正しい・間違っているという話ではなく、「前提が変われば正解も変わる」という、当たり前のことに改めて気づかされました。
この感覚は、建築にもよく似ていて
例えば、少し前まで当たり前とされてきたこと。
南向きが良い、部屋は6畳以上、窓は大きく、風通しを確保する——。
どれも間違いではありませんし、今でも有効な場面は多くあります。
ただ、それらが生まれた背景には、その時代の技術や暮らし方があります。
断熱性能が十分でなかった時代。
空調設備が今ほど発達していなかった時代。
家族の在り方や生活時間が比較的画一的だった時代
そうした前提の中では、それらは確かに合理的な“正解”でした。
一方で現在は、断熱や気密の性能は大きく向上し、空調も進化しています。
働き方や家での過ごし方も、多様になりました。
その中で、昔の定石をそのままなぞることが、必ずしも最適とは限らなくなっています。
外野守備で言えば、「落下地点を先に読む」のか「ボールを見続ける」のか
それは理論の優劣というよりも、“今の前提に対してどちらが合理的か”という問題です。
設計も同じです。
過去の知見を否定するわけではありません。
むしろそれは大切な蓄積です。
ただし、それを無自覚に前提としてしまうと、今の暮らしに対して少しずれた提案になってしまうことがあります。
だからこそ、一度立ち止まって考えます。
それは本当に、今の条件に対して最適なのか。
家づくりには、「なんとなくそういうものだから」という判断が意外と多くあります。
けれど、その“なんとなくの常識”が、いつの時代のものなのかを見直してみることは、とても重要です。
昔からそうだから、ではなく。
今の暮らしに合っているかどうか。
外野でフライを追いかけていた頃の感覚を思い出しながら、そんなことを考えています。
一度、ボールから目を離すのか。
それとも、最後まで見続けるのか。
設計もまた、その選択の連続なのだと思います。
マロングラッセ
先日、数年ぶりに関東に住む友人と会いました
その時に、お土産としていただいたマロングラッセが、とても印象的でした
しっかりとした歯触りと、崩れない形
甘さは強いのに、どこか輪郭がはっきりしている
パッケージには「イタリア産の栗」とあります
そのとき、単純な疑問が浮かびました
栗であれば、日本にもあるはずです
なぜ、わざわざイタリアの栗なのか
調べてみると、その理由は明確でした
和栗は、鬼皮や渋皮との実離れが悪く、加工に手間がかかる
さらに煮崩れしやすく、形を保つことが難しい
つまり、マロングラッセという“用途”に対して、素材として適していないのです
ここで一つ、はっきりすることがあります
素材には適性があるという、ごく当たり前の事実です
ただ同時に、こうも思います
では、その「適していない」という評価は、どこまで絶対なのか
条件を変えればどうなるのか
手間をかければ成立するのか
あるいは、別の価値として成立させることはできないのか
素人の発想は、ときに非効率です
しかし、その非効率の中にしか見えない可能性もあります
これは、建築にもよく似ています
一般的に「難しい」とされる敷地条件や素材
セオリーから外れた選択
それらは排除されがちですが、
丁寧に向き合い、試行錯誤を重ねることで、
むしろ固有の魅力へと転じることがあります
重要なのは、知識そのものではなく、
自分の手で確かめた経験があるかどうかです
和栗でマロングラッセを作る
おそらく簡単ではありません
それでも一度やってみる価値はある
失敗も含めて、その過程にしか見えないものがあるからです
設計もまた、同じです
机上の理解だけでは辿り着けない答えが、確かに存在しています
植物の力
事務所には2鉢の観葉植物があります。冬の寒さが厳しい地域でもあり、元々観葉植物には向いていないのかもしれないのですが、事務所に緑があると少し気持ちが和らぐのでつい購入したのですが、一つはトネリコ、もう一つはガジュマルです。トネリコは既に数回の冬を経験していて冬に落とした葉が春になるとまた復活を繰り返しています。但し、復活の勢いが徐々に弱くなっている気がします。方やガジュマルはこの冬が2回目の経験です。今シーズンはうっかりと保温対策を怠ってしまったため、現在は完全に葉が落ちてしまっています。さて徐々に暖かくなり再び芽が出るのか?と思いつつ色々調べてみました。
寒い時期、植物は以下のような状態になるようです。
細胞分裂や成長はほぼ停止
呼吸や代謝は最低限だけ維持
水分を減らし、細胞内に糖などを増やして「凍りにくく」する
これはいわゆる「休眠」状態だそうです。
つまり「死んでいる」のではなく、極限まで活動を落として耐えている状態なのだとか
■ 復活するケースもある
次の条件が満たされると、春に再び活動を始めるそうです。
細胞が凍結破壊されていない
根や形成層(成長点)が生きている
エネルギー(デンプンなどの蓄え)が残っている
たとえば:
落葉樹(冬に葉を落とす木)はかなり強い
多年草(毎年芽を出す草)も地上部が枯れても地下は生きている
■ 枯れてしまうケース
一方で、次のようなケースでは回復できないとのこと
細胞内の水分が凍って膜が破壊される(=凍害)
乾燥しすぎて細胞が壊れる
根が凍って水を吸えない
低温がその植物の耐性を超える
この場合は見た目は同じ「枯れ」でも不可逆(完全死)になるそうです。
■ 種類による違い(かなり大きい)
これは非常に重要なポイントで
1. 寒冷地型(強い)
シラカバ、モミなど
マイナス数十度でも生存可能
細胞レベルで凍結耐性を持つ
2. 温帯型(中くらい)
サクラ、カエデなど
冬は休眠する前提で設計されている
3. 熱帯・亜熱帯型(弱い)
観葉植物、バナナなど
10℃前後でもダメージ
0℃付近で致命的
■ 個体差もある
当然ですが同じ種類でも個体差はあるとのこと
日当たり・風当たり(環境ストレス)
水分状態(乾燥 or 過湿)
栄養状態
年齢(若木は弱いことが多い)
つまり、同じ条件でも「生き残る株」と「枯れる株」が出るのは普通なのだそうで
果たして、当事務所の植物達は今後、どうなるのか?応急手当はしているのですが、もう少し様子をみてみたいと思います。
建築で使う杉やヒノキも植物であることに変わりありません。
建築的な視点で見ると、植物はかなり合理的です。
葉を落とす → エネルギー消費と蒸散を削減
地下に退避 → 温度変化を緩和
糖を増やす → 不凍液の役割
つまり、「冬仕様に可変する生体システム」です。
特別な装置で無くDNAに組み込まれたシステムで環境に対応する素晴らしい力を我々も、建築づくりにおいて少し分けていただいています。
Y字の枝が呼びかけてくる
剪定した後の栗園は伐った枝の山があちこちに散らばっています。
このままでは、これから先のシーズンで草刈りの邪魔になるため、この枝の山を放置しておく訳にはいきません。伐った枝を、柴や薪に分解する作業を先日行いました。
手を動かしながら仕分けていると、ふと、少し太めの枝をそのまま残している自分に気づきました。
二股に分かれた、Y字の枝です。
特別きれいなわけでもない、真っ直ぐでもない
それでも、なぜか捨てずに手元に置いておきたくなる。
理由を考えると、その「かたち」にある気がします。
Y字という形は、不思議と安定しています。
何かを支えることもできるし、引っ掛けることもできる。
受け止めるための形、と言ってもいいかもしれません。
子供の頃、この形の枝を見つけては、先にゴムを結び、石を飛ばして遊んでいました。
いわゆる手作りのパチンコです。
あるいは、地面に差し込めば釣竿を立てる道具にもなる。
少し工夫すれば、庭の支柱や、簡単な道具掛けにもなる。
面白いのは、最初から用途を決めていたわけではないことです。
この形を見たときに、「何かに使えそうだ」と感じる。
そして後から、使い道が立ち上がってくる。
設計も、どこか似ているように思います。
敷地の形、周囲の環境、光の入り方や風の抜け方。
それらはすでにそこにある「条件」です。
設計というと、何もないところから新しいものを生み出すように見えますが、
実際には、その場所にあるものを丁寧に読み取ることから始まります。
与えられた条件の中に、すでにヒントは含まれている。
それをどう捉え、どう引き出すか。
Y字の枝を手に取って、使い道を探す感覚に、少し似ています。
既製品は、用途があらかじめ決まっています。
一方で、自然のものには、決まった使い道がありません。
だからこそ、「どう使うか」をこちらに委ねてくる。
言い換えれば、暮らしの中に余白を残してくれる存在です。
今回残したY字の枝も、まだ何に使うかは決まっていません。
けれど、手元に置いておこうと思っています。
そのうち、ふとした瞬間に、
「あ、これだ」と思える使い方に出会う気がするからです。
少しだけ、用途の決まっていないものを持っておく。
そんな余白が、暮らしをほんの少し豊かにしてくれるのかもしれません。
読了
読み終えました、笠井恵理子さん著の「室温を2度上げると健康寿命は4歳のびる」
著者はジャーナリストですが、有識者への取材やデータに基づきエビデンスのある内容が盛り沢山でした。
私もテーマの一つとして掲げている「住まいと健康の関係」について少し学ばせていただきました。私が知っていたデータも幾つかありましたが、そのデータの基はこの本に登場する有識者によるものでした。
うっかりさんが、その理論で行くと南国の人は皆長生きするのか?と言ったことをクチコミに書き込んでいましたが、ちゃんと文章を読めば単なる「寿命」と「健康寿命」の違いを冒頭に書いてあります。きちんと日本語を理解しなければいけません。
サブタイトルには少し怖い文言も並んでいますが、興味がおありの方は、ご一読下さいませ。
子供部屋は広さより距離感を大事にする
家づくりの打合せをしていると、よく話題に上がるのが「子供部屋の広さ」です。
「将来のことを考えて、少し広めにしておいた方が良いでしょうか?」
そんなご相談をいただくことは少なくありません。
もちろん、広い部屋が悪いわけではありません。
ただ、実際の暮らしを見ていると、子供部屋は必ずしも広くなくても十分成立すると感じています。
小さいうちは、子供部屋よりリビング
あくまでも一般論ですが、しかしベネッセなどの調査結果もあります。
それは、年齢が低いうちは、子供部屋で勉強するよりも、
リビングで勉強する方が学習習慣を作りやすいと言われています。
リビング学習が有利と言われるのには、いくつか理由があります。
・保護者の目が届く
・勉強を始める時間を決めやすい
・だらだら先延ばしにしにくい
・困った時にすぐ声を掛けられる
つまり、学習環境として重要なのは、
**「広い個室」よりも「家族の気配がある場所」**だったりします。
成長すると、個室が役に立つ
もちろん、年齢が上がると状況は変わります。
思春期になると、
集中するための場所や、自分の時間を過ごす場所として
個室が有効になることも多いです。
ある研究結果では学年が上がるほど親は子供に、より大きな自立性を与え自立支援が高いほど標準テスト・評定・宿題完了度が高いとの報告もあるようです。
ただし、ここで一つ注意があります。
個室をあまりに快適に作り過ぎると、
子供はその部屋に閉じこもりがちになります。
スマホ、ゲーム、漫画など自己管理能力の弱い子には集中空間ではなく誘惑空間になりやすい環境が整うと成績も低くなるそうです。勿論、成績だけが人をつくる指標ではありません。
そのような空間になると、家族と過ごす時間は自然と減っていきます。
個室が有利なのは静かで誘惑が少なく自分でペースを作れる場合だそうです。
子供部屋は、
家族の距離を調整するための空間でもあります。
空間は、平面だけでなく立体で考える
子供部屋を計画するとき、
つい「床面積」だけで考えてしまいがちです。
しかし空間は、立体的に使うことができます。
例えば
・ロフトベッド
・収納付きのベッド
・天井高さを活かした収納
・上下段の使い分け
こうした工夫をすることで、
コンパクトな部屋でも十分に機能します。
実際、私が設計した住宅でも
設計当初は3人兄弟だったご家庭に、後からもう1人家族が増えたケースがあります。
その時も増築することなく、
空間の立体活用によって暮らしが成立しています。
子供は、大人が思っている以上に
与えられた環境に順応する力を持っています。
子供部屋は「将来の空き部屋」になる可能性もある
もう一つ、家づくりで大切な視点があります。
それは、
家族が家で過ごす時間は、意外と長くないということです。
子供はいずれ巣立ちます。
そうすると、
広く作った子供部屋が
そのまま使われない空間として残ることも珍しくありません。
コンパクトにすることは、暮らしの合理性でもある
最近は、物価高騰の影響もあり、
建築費が以前より大きく上がっています。
「出来るだけ広くしたい」という気持ちは
もちろんよく分かります。
ただ、子供部屋を少しコンパクトにまとめるだけでも
建築コストを抑えることができます。
その分、
・断熱性能を高める
・窓の質を上げる
・リビングを少し豊かにする
そんな使い方をする方が、
家全体の満足度は高くなることも多いのです。
子供部屋は「余白」でいい
子供部屋は、
最初から完成された空間である必要はありません。
むしろ
少し余白があるくらいがちょうどいい。
成長に合わせて
使い方が変わり、
家具が変わり、
時間の過ごし方が変わる。
そんな変化を受け止める場所として、
子供部屋は存在しているのかもしれません。
広さよりも、
家族の距離感をどう作るか。
子供部屋の計画は、
そんな視点から考えてみると、
少し違った答えが見えてくるかもしれません。
震災のたび、建築は問い直される
1日遅れとなりましたが「3.11」を偲び、ブログに記させていただきます。
田んぼの間を縫うあみだの道を
数台の車が必死に逃げていました。
そのすぐ後ろから、
黒い水が押し寄せてきます。
「逃げろ、逃げろ。」
テレビの前で、そう祈ることしか出来ませんでした。
15年前の先日、
東日本大震災の日のことです。
その時、私は事務所でお客様と打ち合わせをしていました。
打ち合わせが終わり、
いつものようにラジオをつけると、
大きな地震があったというニュースが流れてきました。
ただ、その時丹波では
揺れをまったく感じませんでした。
遠くで起きた出来事のように
最初はどこか現実感のないまま聞いていたのを覚えています。
気になってテレビをつけると、
そこに映っていたのが、
津波が田んぼを飲み込もうとしている光景でした。
私は阪神淡路大震災で被災はしていませんが、
当時、大阪の豊中に住んでいたため震度5の揺れを経験しています。
建物がきしむ音。
家具が揺れ、食器が床に落ち、割れる音。
あの時の空気は、
今でも身体が覚えています。
建築の世界では、
大きな震災が起こるたびに
国の基準が少しずつ見直されてきました。
1981年には新耐震基準が設けられ、
阪神淡路大震災の後には
木造建築の規定にも見直しが入りました。
そして昨年2025年には、
いわゆる4号特例が廃止されました。
木造住宅であっても、
安全性の根拠を示すことが求められる時代になりました。
建築は、
震災が起きた後に評価される仕事です。
普段は意識されることがなくても、
いざという時に人を守れるかどうか。
その結果が、
建物の本当の価値を決めるのだと思います。
耐震性能というと、
耐震等級という数字で語られることがあります。
もちろん大切な指標です。
ただ、建物の強さは
数字のゲームではありません。
壁の配置
建物のバランス
構造の考え方
そうした設計の積み重ねが
建物の安全性を大きく左右します。
だから私たちは、
数字だけではなく、
建物全体の構造バランスを大切に設計しています。
テレビに映っていた、
あの田んぼの一本道。
あの車が無事に逃げ切れたのか、
今でも分かりません。
ただ、あの映像を見るたびに思います。
家は、美しいだけでは足りません。
人を守れてこそ、建築だと思います。
私たちは丹波で住宅の設計をしています。
暮らしを支え、いざという時には人を守る建築。
そんな家を丁寧に考え続けていきたいと思います。