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0303青垣町東芦田の芦田建築設計事務所 代表 芦田成人にお話しを伺いました
先日、ご縁をいただきまして地元のコミュニティFM 805 たんば に出演させていただきました。
パーソナリティーの、こてつさん のお人柄もあり、とても楽しい時間を過ごすことが出来ました。
私も、ずっと話し声が笑ってしまっていまして、おかげ様で緊張することなく話すことができました。
実際に、自分の話し声を客観的に聴く機会もないので不思議な感覚です。
宜しければ、御拝聴下さいませ。
詳しくは、上記リンクからお願い致します。
言葉もまた、納まりで決まる
先日、ご縁をいただき、地元のFM局に出演させていただきました。
ラジオ出演そのものは今回で2度目でしたが、この番組に出させていただくのは初めてでした。
けれど、パーソナリティの方のお人柄のおかげで、妙な緊張をすることもなく、
自然に会話をすることができました。時間としては、とても楽しいものでした。
ただ、話している本人が楽しかったことと、
番組として聴きやすかったことは同じではありません。
話し手の手応えほど、当てにならないものもないのかもしれません。
その点、家で聴いていた妻が「聴きやすくてよかった」と言ってくれたのは、ありがたい感想でした。
自分では分からないものを、外側から返してもらえたからです。
今回、ひとつだけ強く心に残ったことがあります。
普段よく聴いているAM番組で、ゲストの方が最後に
「ありがとうございました、とても楽しかったです。」
と話されていました。
たったそれだけの言葉です。
けれど、その短いひと言で、その人がその場をどう受け取っていたのかが、きれいに伝わってきました。
内容以上に、終わり方の良さが印象に残りました。
私は今回、それができませんでした。最後は「ありがとうございました」で終わりました。
感謝していなかったわけではありません。
楽しくなかったわけでもありません。
けれど、思っていたことを、言葉としてきちんと納めるところまで至らなかった。
そこに、自分の未熟さがあると思いました。
建築も同じです。
設計は、考え方があるだけでは成立しません。
空間の骨格を考えることも大事ですが、それだけでは人には届かない。
寸法を決め、線を引き、見切りを納め、触れる部分の精度を上げ、最後まで整えて、ようやく設計は空間として伝わります。
思想があることと、設計になっていることは別です。
気持ちがあることと、伝わることが別であるのと同じです。
ラジオの最後のひと言は、小さなことのようでいて、実は小さくありません。
終わり方には、その人の姿勢が出ます。
設計で言えば、納まりにその人の仕事が出るのと同じです。
全体の構想をどれだけ語っても、最後の詰めが甘ければ、仕事の輪郭はそこでぼやけます。
おそらく、人が受け取っているのは、立派な説明そのものではなく、こうした細部の整い方なのだと思います。
空間も、言葉も、最後にどのように着地したかで印象が決まる。
むしろ最後の数秒、最後の数ミリに、その人の仕事は宿るのかもしれません。
今回の出演は、楽しい時間であると同時に、設計者としてあらためて考えさせられる時間でもありました。
このたびは、貴重な機会をいただきありがとうございました。
設計も言葉も、最後まで表現できてこそ人に届くのだと思います。
※ 写真と本文は直接関係ありません。
既製品は使う、だが任せない
既製品を使うこと自体は、まったく悪ではありません。
むしろ性能が安定していて、納期も読みやすく、価格も比較しやすい。
住まい手にとっても安心材料になります。
だから私は「既製品はダメ」とは言いません、
けれど同時に、既製品“だけ”で住まいをつくろうとすると、
そこには設計という行為が入り込む余地が急に小さくなります。
なぜなら、既製品中心の住まいは、突き詰めると「組み合わせ」になっていくからです。
カタログから選び、色を揃え、サイズを当てはめ、雰囲気を整える。
これはコーディネートとして大切な仕事ですが、
私が建築設計者として向き合いたい領域とは少し違う。
設計とは、空間そのものの精度と必然性をつくる仕事だからです。
分かりやすい例が、キッチン周りの什器類です。
吊戸棚、カップボード、家電収納、冷蔵庫スペース、ゴミ箱の位置。
既製品で揃えようとすると、どうしても「規格寸法」に支配されます。
ミリ単位の調整ができないため、最後に残るのは“逃げ”のような余り寸法、
たとえば壁と収納の間に、理由のない20mmや35mmが残る。
すると、その小さな余白が、暮らしの中でずっと「なんとなく変」を生み続けます。
掃除がしにくい、埃が溜まる、見た目が締まらない、納まりが曖昧に見える。
たった数センチの話なのに、空間の品位が落ちるのです。
私が考える真の設計は、そこを“数ミリ”で詰めていくことから始まります。
壁の厚み、下地の位置、見切り材の入れ方、天板の出、扉のクリアランス。
数ミリ単位のやり取りを重ねた結果として、空間が「なぜか整って見える」状態に到達する、
そこにディテールが宿ります。ディテールは飾りではなく、数字と納まりの積み重ねが生む必然です。
さらに、素材の問題もあります。
既製品の多くは、ツルツル・ピカピカとした均質な面で仕上げられています。
もちろんそれが似合う空間もありますが、私たちが大切にしたい“本物の木”の
素材感とは相性が難しい場面が出てきます。
木には木目の揺らぎ、触れた時の温度、経年変化があります。
一方で既製品の面は均質で、反射が強く、時間の要素が入りにくい。
両者を同じ空間に置くと、どちらかが浮く。
木の良さを引き立てたいのに、既製品の「完成され過ぎた表情」が
空間の呼吸を止めてしまうことがあるのです。
では、既製品はどこで使うべきか。
答えは単純で、「既製品が空間を支配しない範囲で、性能と合理性を借りる」です。
機器としての信頼性が必要な部分、メンテナンス性が優先される部分、交換が前提の部分。
そこは既製品が強い。
一方で、住まいの印象を決める面、触れる頻度が高い部分、視線が集まる部分、
そして寸法の“最後の詰め”が必要な部分は、設計でつくる。
既製品を活かしながら、既製品に飲み込まれない境界線を引く。
それが設計者の仕事だと思っています。
既製品中心の家は、たしかに早いし分かりやすい。
でも、住まいは「分かりやすさ」だけで出来ていません。
暮らしのストレスは、だいたい“ちょっとしたズレ”から始まります。
そして、そのズレを潰せるかどうかは、数ミリの世界を丁寧に扱えるかにかかっている。
芦田成人建築設計事務所がやりたいのは、カタログを上手に並べることではなく、暮らしの中に残る違和感を、設計で静かに消していくことです。
既製品は敵ではありません。
ただ、主役でもない。主役は暮らしで、設計はその暮らしが気持ちよく続くための「精度」をつくる仕事。
だから今日も、数ミリを詰めています。
FM805 たんば に出演します
前回、延期となりました地元 FM805 たんば 番組名「丹波で暮らそう」に出演させていただきます。
メインパーソナリィティーの方との掛け合いで、台本も無いため、どのような展開になっていくのかは予想がつきませんが、今回は建築士としての立場で、幾つかお話出来ればと思っています。お時間がお許しの方はお聴きくだされば幸いです。丹波以外の方でもインターネットラジオからお聴きいただけるようです。以下のアドレスより宜しくお願い致します。
放送情報
【放送日】3月5日(木)
【放送時間】19:30〜20:00(30分)
【番組名】FM805たんば「丹波で暮らそう」
https://www.jcbasimul.com/tanba
また来たいの途中で足が止まった、23cm
週末栗農園、未だやることは沢山あるけども、久しぶりにお休みにして
先日、世界的なコンテストで賞も受けているという有名なカフェへ行ってきました。
正直、期待していました。けれど、それは期待を上回るものでした。
注文したスィーツがとても美味しい。
甘さだけではなく、香りや食感、味の層がいくつもあって、
ひと口ごとに「次は何が来るんだろう」と楽しくなる。
食べ終わった瞬間に、「次に来たら他の種類も食べたい」と思っていました。
建物もおしゃれで、空間の使い方が上手い。
1階で商品を注文して、テラス席や2階席で
それらを食べられるシステムです。
庭を眺めながらお茶を飲める席もあれば、
2階席でゆったりとした椅子に座り静かに時間を楽しめる席もある。
私たちは2階席を選びました。
少しだけ日常から距離を取れるような、その感じが良かったんです。
……ところが。
階段を上る時に、ほんの少しだけ違和感がありました。
危ないというほどではない
でも、体が「ん?」と反応する
足が一拍遅れるような、無意識に慎重になるような感覚です。
職業病とでも言うべきか
帰り際、気になり指を広げ測ってみました。
私が指を広げた時の親指から小指の先までは、およそ22cm
蹴上げ(階段の高さ)を測ってみると、それプラスアルファなので
約23cmほどです。
「なるほど」と思いました。
これは建築基準法で許可されたギリギリの寸法で、上れないわけではない。
でも、上りやすいかと言われると、それは又、別の話です。
私が設計する時にはおよそ20cmを目指します。
たった数センチで、体は正直に“違和感”を覚えます。
カフェって、意外と階段に条件が重なります。
手にトレーを持つ人もいる、バッグを肩にかけている人もいる。
お子さん連れや、ご年配の方も来る。
さらに、楽しい気分で気が緩んでいる時ほど、足元の「やさしさ」が効いてくる。
このカフェを否定したいわけではまったくありません。
スィーツは本当に素晴らしかったし、庭の見え方も席のつくりも魅力的でした。
だからこそ、ほんの小さな「体の引っかかり」が、最後に記憶に残ってしまうのが惜しかった。
美味しいスィーツは、ひと口で心をほどきます。
でも、上りにくい階段は、たった一歩で体を固くする。
住まいも同じです。
暮らしの中で何度も繰り返す動作に、無理を混ぜない。
私たちは、見た目の“良さ”より先に、毎日の動作のラクさを設計します。
家は、鑑賞するものではなく、帰って呼吸する場所だからです。
写真は今回のお店とは全く無関係です。
遅効性の土づくり、建築もまた“効き始めるまで”を設計する
剪定を終えた栗の木に、週末は肥料を入れました。
使ったのは有機肥料である牛糞、牧場から直送して貰って数年寝かせたもので
正直「綺麗な作業」ではありません。
でも、これは汚いものではなく、自然の循環そのものだと思っています。
命が巡って、土に戻り、次の季節の力になる。
人の暮らしも、建築も、本当はこの循環の上に乗っている。
牛糞は遅効性です、直ぐに効くタイプではない
化学肥料ももちろん良い、狙いどころが明確で、反応も早い。
ただ、栗は結果が出るまでに時間がかかります。
だから今は、木を急かすより、土を育てるほうが筋との判断です。
実を直接「太らせる」より、実が育つ土台を整える
遠回りに見える道が、いちばん確実な道になることがある
この「遅効性」という考え方は、設計の現場でもよく似ています。
短期的な満足をつくる方法はいくらでもあります。
見た目の変化、設備の追加、派手な提案、
けれど、暮らしの質を静かに底上げするのは、たいてい“遅効性”の部分です。
断熱・気密、日射の扱い、湿気の逃がし方、耐震、素材の選び方、納まりの丁寧さ
住み始めた直後よりも、数年後、十数年後に「あの判断が効いている」と分かる領域がある。
建築は、すぐ効くものだけで組み立てると、あとで必ず歪みが出ます。
牛糞が「土を作る」というのも、まさにそこです。
土が変われば根が変わる、根が変われば木が変わる、木が変われば実が変わる。
目に見える成果は最後に出てくる。
だからこそ、目に見えない最初の一手を雑にしない。
肥料は木の状況を見極めて幹から少し離して与えます。
幹の近くに寄せすぎても効きが良くないからです。
効かせたいからといって、近づければいいわけじゃない。
これも設計と同じで、効かせたい性能ほど“距離”や“余白”が要ります。
木部と水を近づけすぎない、熱や湿気が溜まる場所をつくらない。
構造に無理をかけない、意図して離すことで、長く健やかに効いてくる。
そして何より、この作業はかなりの重労働です。
運ぶ、撒く、ならす。地味で、派手さはない。
でも、こういう作業を省いた年ほど、あとからツケが回ってくるもの。
設計も同じで、目立たない検討に体力を使うほど、完成後の暮らしが軽くなる。
こちらが先に重さを引き受ける。住まい手の毎日から、その重さを減らすために。
栗の実りは、今日明日には見えません。けれど、土は確実に変わり始めています。
建築もまた、完成の日がゴールではなく、そこから先の時間に効いていくもの。
遅効性の一手を、今年も丁寧に積み重ねていきます。
ミスは、設計で潰す
先日、実家の車を1台売りました。
父の免許返納で、車が不要になったためです。
実家にはもともと2台の車があり、いまは1台が残っています。
ここで起きているのは「車が減った」だけではなく、
暮らしの運用が変わったという事実です。
ついでに、置き場に集まっていたタイヤも整理しました。
不要だと思っていた3種類のタイヤを買い取り業者さんへ。
――この時点では、片付けは成功したように見えました。
ところが、残った車の車検でミスが発覚します。
残っている車は冬用タイヤを履いている。
つまりノーマルタイヤが必要。
そのノーマルタイヤを、不要品として譲ってしまっていました。
結果、ノーマルタイヤを新調することに
「整理」だと思った行為が、「再購入」になった。
このミスの正体は、確認不足ではありません
もっとシビアな話です。
置き場が、判断を狂わせた。
不要なタイヤと必要なタイヤが同じ場所に置いてあった。
混在している状態で「これは要らない」と判断した時点で、もう負けです。
人は混在を正確に扱えない、しかも似たものは、脳が勝手に同類に分類します。
タイヤの見た目は似ている。
だからミスは“起きた”のではなく、起きる条件が揃っていた。
ここでやるべきは反省ではなく、設計変更です。
分ける:残すもの/手放すものを同一場所に置かない(床を分ける)
名付ける:用途と車名をラベル化する(人が読める情報にする)
通過点を作る:譲渡の前に「車ごとの必須物チェック」を必ず通す(判断ゲート)
これは、そのまま建築の世界の話です。
収納が混在すると、暮らしは荒れます。
現場の資材や情報が混在すると、施工は荒れます。
だから設計は、美しさを描くだけじゃない。
ミスを起こさせない配置を作る技術です。
あたりまえのことのように見えますが
「気をつけましょう」では守れない領域があります。
転倒も、温度差も、地震も、“注意”では防げない、だから設計で潰す
同じように、暮らしの小さなミスも、配置と仕組みで潰せます。
今回の買い直しは痛い。けれど、原因が見えたのは大きい
暮らしを整えるとは、見た目を整えることではありません
迷わない状態を作ること。
そして、その迷いを減らすのが、設計の役割だと思っています。
ラジオ出演延期のお知らせ
本日夜に予定していた地元FMラジオへの出演が、先方様のご都合により延期となりました。
楽しみにしてくださっていた方がおられましたら、
まずはお知らせが急になりましたこと誠に申し訳ございません。
実のところ、私は今日に向けて少し緊張していました。
話したいテーマはいくつもあるのに、「何をどんな順番で届けるか」が、
まだきれいに一本の線になりきっていなかったのも正直なところです。
ただ、延期になったことで、結果的に“整える時間”をいただいたようにも感じています。
伝えたいことを、もう一度言葉にして、削って、つなげて、磨く。
その作業を丁寧にできる猶予ができました。
ラジオは、こちらが一方的に話す場ではなく、メインパーソナリティーの方との「会話」で進んでいきます。
だからこそ、準備した通りに話せるかどうかは、その場になってみないと分かりません。
でも、その不確かさがあるからこそ、やり取りの中で生まれる言葉や、思いがけない問いに出会えるのもラジオの面白さだと思っています。
次回の放送では、整えた言葉を携えて、会話そのものも楽しめたら
そんな気持ちで、延期を前向きに受け止めています。
放送日は3月になる予定ですが、決まり次第、また改めてご案内します。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。
火は買える、でも編集は買えない
枝先を眺めながら、どのように編集しようか?と悩んでいます
去る2月15日の日曜日に今年から関わり始めた週末栗農園で栗の木の剪定をしました。
剪定の時期は、だいたい2月いっぱいくらいまでが目安だそうです。
先々日までの寒さの底にいるような空気から解放され、ぽかぽかした陽射しの中
枝を一つずつ確かめながら手を入れていきます。
不思議なもので、枝を落としていくほど、木がすっと呼吸をはじめるように見えてきます。
混んでいたところがほどけて、空が見える。風が通る。木が軽くなる。
「整える」って、こういうことかもしれないなと思いました。
落とした枝は、太さや状態を見ながら「柴」と「薪」に仕分けます。
その作業をしていると、ふと、昔の人は火を起こすために毎回こういう前準備をしていたんだなぁと実感しました。
火って、最初からそこにあるものじゃなくて、手をかけて、時間をかけて、ようやく手に入るものだった。
いまはスイッチひとつで温まるけど、暮らしの温かさって、本当はこういう“静かな手間”の積み重ねの上にあるんだと思います。
便利になった分だけ、見えなくなってしまった工程がある。
この日はそれを、手のひらで思い出した気がしました。
それにしても、栗の木の枝の生え方は独特でした。
まっすぐ素直に伸びるというより、クセがある。伸びたい方向がある。
だから、ただ短く切るのではなく、「この枝を残すと来年どうなるか」を想像しながら決める必要がある。
剪定は減らす作業というより、未来へ向けた編集に近い感覚です。
途中でふと、「この栗の枝、薪ストーブ用の薪として活用できるのだろうか」と考えました。
切った瞬間は“ただの枝”なのに、仕分けした瞬間に“使えるもの”になる。
捨てるか、活かすかは、見方と段取りで変わる。
暮らしには、こういう小さな転換点がいくつもあるのだと思います。
家づくりも、どこか似ています。
足すことより先に、何を残すか。何を減らすか。
暮らしが気持ちよく回るように、抵抗になるものを静かに取り除く。
派手な工夫より、地味な整え方のほうが、長い時間、暮らしを支えてくれることがある。
住まいは、特別な日のためではなく、何でもない日を支える場所。
だからこそ、派手さよりも、毎日が楽に回る整い方を大切にしたい。
木の手入れをしていて思いました。
「整える」とは、飾ることではなく、余計な抵抗をそっと外していくことなのかもしれません。
木が風を通して元気になるように、家も、光と風と熱が無理なく巡ると暮らしが軽くなります。
私たちは、派手な正解より、毎日の体感が整うことを大切にしたい。
暮らしを主役に。建築は健やかに支える。
剪定した枝を柴と薪に仕分け
FM 805たんば に出演します
2月19日(木)、地元のコミュニティFM 805たんば (ラジオ)にお声がけいただき、
番組 「丹波で暮らそう」 に出演します。
805たんばへの出演は実は2回目で
前回は「うちエコ診断士」としてお話ししましたが、
今回は建築士として、住まいのことを少し違う角度からお話しできればと思います。
なお、「丹波で暮らそう」への出演は今回が初めてで、私自身もとても楽しみにしています。
当日話したいテーマはまだ最終調整中ですが、たとえば
住まいと健康の関係
住まいの耐震化
地域の木で家を建てる意味
そんな話題を、できるだけ一本の線につながるようにお話しできればと思っています。
それと番組で1曲リクエストもできるそうで、
高校時代の思い出から選ぶ予定です(曲名は放送で…)。
お時間が合えば、耳だけでもお付き合いください。
聴いてくださった方は、放送後に感想もぜひ。
次の設計の精度につながるヒントとして、ありがたく受け取ります。
放送情報
【放送日】2月19日(木)
【放送時間】19:30〜20:00(30分)
【番組名】FM805たんば「丹波で暮らそう」
https://www.jcbasimul.com/tanba
暮らしは体感、設計は検証
前回のブログでも触れていましたが、
1月末に宝塚のお客様の住まいに温熱測定の機器を据えさせていただきました。
玄関に入った瞬間の空気が、外の冷たさときれいに切り替わる、
冬の家は、その差がよく分かります。
温熱測定は、小さなセンサーを置いていく、ただそれだけの作業です。
けれど私にとっては、「この家で始まった暮らし」を、設計者としてそっと見守るような時間でもあります。
住まいの快適さは、数字だけでは決まりません。
同じ室温でも、人によって「ちょうどいい」は違います。
家族構成、在宅時間、服装、体調。日当たりの感じ方や、風の通り道の好み。
さらに言えば、忙しい朝と、ゆっくりできる夜では、同じ空気でも印象が変わる。
暮らしには“気分”も混ざります。
だから私は、住まいを数値だけで判断することには慎重です。
でも同時に、数値を取っておくことも大切だと考えています。
理由は単純で、体感を大事にしたいからこそ、裏付けを持っておきたいからです。
たとえば「冬の朝、足元が少し冷える」と感じたとき。
それが外気の影響なのか、日射の入り方なのか、換気のタイミングなのか、あるいは暖房の運転の仕方なのか。体感は正直で、だから尊い。けれど、原因の見立ては案外むずかしいものです。
温熱測定は、室温や湿度などを一定期間“実測”し、住まいの温熱環境を数値として把握するものです。
データがあると、暮らしの言葉が少しだけ整理されます。
・暖房の効き始め方に偏りがないか
・湿度が落ちやすい日があるなら、何がきっかけなのか
こうしたことが見えると、「暮らしの改善」が根性論になりません。
暮らし方の工夫で整う部分もあれば、設計として次に活かすべき学びも出てきます。
そして何より測定をする意味は、このお客様の住まいだけのためではありません。
宝塚という地域性、日当たり、風、生活のリズム。
そうした条件の中で、この家がどんな環境になっているのか。
その実測データは、これから設計させていただく住まいにとっても、確かな参考になります。
家づくりは、完成したら終わりではなく、暮らしが始まってからが本番です。
数字は、その本番を「暮らしの言葉」で語るための補助線のようなもの。
言った者勝ちにしないためにも、住まいを数値だけで判断しないためにも、数値もきちんと持っておく。
そんな姿勢で、今回の測定結果も丁寧に読み取り、次の設計へとつないでいきます。
「性能の話ばかり」でもなく、「感覚だけ」でもなく
どちらも丁寧に扱いながら、暮らしに合う判断軸を一緒に整えます。
初回相談で、温熱・換気・日射の考え方も含めてお話しできます。
暮らしを主役に。建築は静かに支える——そのための検証です。
祝日の家
2月11日、建国記念の日。
丹波では数日前の大雪が残るなか、宝塚は雨の一日でした。
2月8日に降った雪。その後の冷え込み。
そして、溶けきらない雪に追い打ちをかけるような雨。
外の環境が大きく揺れる数日間でした。
その祝日の午前中、
先月末に温熱測定のために設置させていただいた機器の回収に、宝塚の「坂道に建つ家」にお伺いました。
祝日であっても、ご家族の皆様はお仕事に出られている方もいらっしゃいます。
家の中には、祝日の少しゆるやかな空気と、働く日常の気配が同時に流れていました。
そんな中、お話は、自然と地域の話題へ。
宝塚の清荒神のこと。一昨年の工事中年始めの初現場定例打合せ後、私はこの現場から徒歩で清荒神をお詣りしたのですが、大層な距離もありましたし、参道の露店は誘惑もいっぱいでした。幸い三が日は外れていたため大きな混雑には巻き込まれませんでしたが、三が日は大層な人手とのことでした。
そして人手と言えば私の地元丹波市青垣町・高座神社でも今年は初詣に大層な人出になっていました。
と、「清荒神は当然のことながら、今年はどちらも本当に人が多かった」と笑い合う時間でした。
設計の話でも、性能の話でもなく、こうした何気ない会話ができること。
それは、この家がすでに“暮らしの器”になっている証のように感じました。
ふと、軒下に来るツバメの話にもなりました。
住まいは、自然や天候と切り離されて存在することはできません。
雪も、雨も、湿気も、冷え込みも、自然すべてを受け止めながら、暮らしを支える。
今回の温熱測定は、その“受け止め方”を確かめるための時間でもありました。
大雪のあと。
雨の日。
祝日でも仕事がある一日。
外の環境や家族のリズムが揺れても、室内の空気が穏やかであり続けるかどうか。
私たちが目指しているのは、数値の良さだけではありません。
季節が動いても、天候が揺れても、家族の暮らしが変化しても、家そのものが慌てないこと。
強さを誇示するのではなく、静かに受け止めること。
それが、私たちの設計の基準です。
測定結果は、後日あらためてご報告します。
けれど、この祝日の穏やかな時間そのものが、
すでに一つの答えのようにも感じました。
家は、特別な日のためではなく、
こうした何気ない一日を支えるためにある。
その積み重ねの先に、
本当の快適さがあると考えています。