解釈の余白
Chat GPT が描いた成果物
Geminiが描いた成果物
先日、ちょっとした実験をしてみました。
同じ写真を使って、同じ言葉で、
AIに「劇画調のイラスト」を描いてもらう。
お願いした相手は2つ。
ChatGPTとGeminiです。
条件はまったく同じです。
ですが、出来上がった絵は――
思っていた以上に違うものでした。
ひとつは、どこかやわらかく、少し優しい表情。
もうひとつは、輪郭がはっきりしていて、少しいかつい印象。
「同じことを頼んだのに、どうしてこうなるんだろう?」
最初は単純に不思議でしたが、
眺めているうちに、なんだか既視感のある感覚だなと思いました。
人でも、同じことが起きている
例えば、こんなことはないでしょうか。
同じ料理のレシピを見て作ったのに、
人によって少し味が違う。
同じ家具を置いているのに、
部屋の雰囲気がまったく違う。
同じ言葉を聞いても、
受け取り方が人それぞれ違う。
よく考えてみると、
「同じ条件なのに違う結果になる」ことは、
暮らしの中にたくさんあります。
“その人なりの解釈”が入るから違う
AIの絵も同じでした。
「劇画調」とひとことで言っても、
どこまで強くするのか、どこを強調するのかは決まっていません。
だから、それぞれのAIが
“それらしい”と思う形に整えていく。
少しやわらかくするのか、
少し迫力を出すのか。
その違いが、そのまま絵の違いになっていました。
暮らしも、実は同じつくり方をしている
この感覚、住まいづくりにもとてもよく似ています。
「明るい家がいい」
「落ち着く空間がいい」
こういった言葉はよく出てきますが、
実はとても幅のある表現です。
光をたくさん入れて明るくする人もいれば、
素材や色味で明るさを感じさせる人もいる。
静かな空間で落ち着きをつくる人もいれば、
好きなものに囲まれることで落ち着く人もいる。
同じ言葉でも、
その人なりのイメージが少しずつ違っているんですね。
“ぴったりくる感じ”はどこから来るのか
住まいに入ったときに感じる、
なんとなく「いいな」と思う空気。
あれは、性能や広さだけではなくて、
こうした“解釈の積み重ね”から生まれている気がします。
どこまで明るくするのか。
どこを少し抑えるのか。
何を強調して、何を引き算するのか。
そうした細かな選択が重なって、
その家ならではの空気になります。
正解を探すというより、すり合わせていく
今回のAIの絵には、
どちらが正しいという答えはありませんでした。
やわらかい表情も良いし、
いかつい表情も良い。
ただ、「どちらが好きか」は人によって違う。
住まいづくりも、きっと同じです。
正解を見つけるというよりも、
「どんな感じが心地いいのか」を少しずつすり合わせていく。
小さな実験でしたが、
改めてそんなことを考えるきっかけになりました。
同じ条件でも、出来上がりはひとつではない。
だからこそ、
自分にとってしっくりくるものを、丁寧に選んでいく。
そんな積み重ねが、
暮らしを形づくっていくのだと思います。
設計事務所との家づくりという選択
こうして考えてみると、
住まいづくりは「正解を当てる作業」ではなく、
自分たちにとっての“ちょうどいい解釈”を見つけていく過程なのだと思います。
そしてその過程には、
必ず“人”が関わってきます。
同じ要望でも、
受け取る側によって、考え方や組み立て方は少しずつ違う。
だからこそ設計事務所との家づくりは、
出来上がる形だけでなく、
その途中の対話そのものに意味があります。
言葉をそのまま形にしないということ
「明るい家がいい」
「落ち着く場所にしたい」
そういった言葉を、
そのまま単純に形にするのではなく、
・なぜ明るさが欲しいのか
・どんなときに落ち着くと感じるのか
そうした背景まで一緒に考えていく。
少し遠回りのようでいて、
実はそのほうが、結果としてしっくりくる形に近づきます。
違いがあるからこそ、見えてくるもの
今回のAIの実験のように、
同じ条件でも違う答えが出てくるからこそ、
「自分はどちらが好きなのか」
「どんな雰囲気が心地いいのか」
そういった感覚が、少しずつ輪郭を持ってきます。
設計の打合せも、
まさにそんな時間の積み重ねです。
一緒につくるということ
家づくりは、完成した建物だけでなく、
そこに至るまでのプロセスも含めての体験だと思います。
話しながら、迷いながら、
少しずつ方向を見つけていく。
その積み重ねが、
「なんとなくいい」ではなく、
「これがいい」と思える住まいにつながっていく。
同じから始まって、違いが生まれる。
その違いを面白がりながら、
自分たちにとってのかたちを見つけていく。
そんな家づくりも、
悪くないのではないでしょうか。
もう少し具体的に考えてみたい方へ
ここまで読んでいただいて、
「自分たちの場合だとどうなるんだろう」と感じられた方もいらっしゃるかもしれません。
住まいづくりは、条件が似ていても、
最終的なかたちは本当に人それぞれです。
もし、ぼんやりとしたイメージの段階でも、
「こんな感じが好きかもしれない」という感覚があれば、
それは十分に家づくりの出発点になります。
これまでの事例について
実際の設計事例でも、
最初から明確な答えがあったわけではなく、
・会話の中で少しずつ輪郭が見えてきたもの
・選択肢を並べながら方向性を探っていったもの
そういったプロセスを経て、かたちになっています。
もしよろしければ、
過去の事例もいくつかご覧いただくと、
その違いの面白さを感じていただけるかもしれません。
気軽なご相談について
具体的な計画がまだ先の場合でも、
「こういう考え方ってどうなんだろう?」といった段階から、
お話しすることは可能です。
はっきりとした要望がなくても大丈夫ですので、
少し気になることがあれば、気軽にお声がけください。
住まいづくりは、
最初から答えを持っている必要はありません。
むしろ、対話の中で少しずつ見えてくるものの方が、
あとから振り返ったときにしっくりくることが多いように思います。
今回の小さな実験のように、
同じところから始まっても、出来上がりはひとつではない。
だからこそ、
その過程も含めて楽しめると、
家づくりはより豊かなものになるのではないでしょうか。
私が「100年後の心地よさ」を設計する理由
今日、3月30日は、あの情熱の画家、フィンセント・ファン・ゴッホの誕生日
と言うことを朝、車が教えてくれたアナウンスで知りました。
つい最近までゴッホに関する小説などを数冊読んでいたこともあり、ブログにしたためてみました。
ゴッホといえば、生前はたった1枚の絵しか売れなかったというエピソードが有名ですね。
対照的に、同時代の天才ピカソは、存命中にその類まれな商才を発揮し、巨万の富を築きました。
ビジネスの視点で見れば、ピカソこそが「成功者」であり、ゴッホは「不遇の人」と評価されがちです。
しかし、没後100年以上経った今もなお、私たちの心を揺さぶり続けているのは、どちらでしょうか。
ふと、建築の世界に身を置く一人の人間として考えさせられます。
「果たして、どちらの人生が幸せだったのだろうか」と
遺された価値を「伝える人」の存在
ゴッホの死後、彼の作品が世界中に広まったのは、弟テオの妻であるヨハンナの献身的な努力があったからだと言われています。
彼女がゴッホの書簡を整理し、展覧会を開き続けたからこそ、彼の純粋な情熱は「永遠の価値」として現代に届いています。
これ、実は「家づくり」にも通じるものがあるんです。
私たち建築設計者の仕事は、家が完成した瞬間がゴールではありません。
その家で営まれる日々の暮らしを、住まい手の方が慈しみ、大切に住み継いでくださる。
その「愛着」というリレーがあって初めて、建築は本当の意味で「価値ある場所」になっていくのだと感じます。
「ピカソの戦略」と「ゴッホの誠実」
もし家づくりをこの二人に例えるなら、ピカソ的な視点は「資産価値やトレンドを捉える賢さ」と言えるかもしれません。
もちろん、それはプロとして不可欠な要素です。
一方で、ゴッホ的な視点は「誰に言われずとも、己が信じる正解を追求する誠実さ」ではないでしょうか。
私が意識を傾けている「地元の木を使うこと」や「室温をあと2度上げて、健康寿命を4年延ばす設計」
これらは、一見すると地味で、派手な広告にはなりにくい部分です。
しかし、この「身体への優しさ」こそが、住む人の30年後、50年後の幸せを支えると確信しています。
世間の流行に合わせる「商売」としての建築ではなく、住む人の命の質を高めるための「探求」としての建築。
私は、たとえ目立たなくても、後者のような「静かな誠実さ」を大切にしたいのです。
建築は、静かに支える。
「どちらの人生が幸せだったか」という問いに正解はありません。
ただ、私にとっての「成功」は、私がこの世を去ったずっと後でも、丹波のこの場所で、ご家族が「この家は本当に温かいね」「この木の色がいいね」と、健康に、笑顔で暮らしてくださっていることです。
暮らしを主役に、建築は静かに支える。
ゴッホの誕生日に、そんな原点を改めて噛み締めています。
春の柔らかな光が差し込む家で、皆様が健やかな一日を過ごされますように。
今回のイラストはゴッホをイメージしてAIにプロンプトを与えて生成させた画像です。
2枚目は短かった幸せなひと時、弟テオやその奥さん、画家仲間のゴーギャンらに囲まれて過ごしている様子です。
正解は変わる - 外野守備と設計の話 -
突然ですが、高校時代、私は硬式野球部で外野を守っていました。
自身のポジションを超えそうな高く上がったフライを追うとき、必ず言われていたことがあります。
それは、「一度ボールから目を切れ」という指導でした。
打球が自分の頭を越えそうなとき、ずっとボールを見続けていると初動が遅れる。
だから一瞬視線を外し、落下地点を予測して、そこまで最短距離で走る。
そこからもう一度ボールを捉えて捕球する。
最初は捕れなかった打球を当然のように捕れるようになるまで、何度も練習を繰り返しました。
当時の自分にとっては、それが“正しい外野守備”でした。
疑うこともなく、体に染み込ませてきた感覚です。
ところが最近、テレビで見た番組で、少し驚く場面がありました。
日本ハムの新庄剛監督が、「ボールから目を離すな」と指導していたのです。
かつて自分が教わったこととは、真逆のアプローチでした。
最初は単純に違和感がありました。
本当にそれで間に合うのか、効率がいいのか、と
しかし同時に、それが今の主流になりつつあるという話も耳にしました。
技術や身体能力、あるいはトレーニングの前提が変われば、合理的な動きも変わる。
そう考えると、どちらが正しい・間違っているという話ではなく、「前提が変われば正解も変わる」という、当たり前のことに改めて気づかされました。
この感覚は、建築にもよく似ていて
例えば、少し前まで当たり前とされてきたこと。
南向きが良い、部屋は6畳以上、窓は大きく、風通しを確保する——。
どれも間違いではありませんし、今でも有効な場面は多くあります。
ただ、それらが生まれた背景には、その時代の技術や暮らし方があります。
断熱性能が十分でなかった時代。
空調設備が今ほど発達していなかった時代。
家族の在り方や生活時間が比較的画一的だった時代
そうした前提の中では、それらは確かに合理的な“正解”でした。
一方で現在は、断熱や気密の性能は大きく向上し、空調も進化しています。
働き方や家での過ごし方も、多様になりました。
その中で、昔の定石をそのままなぞることが、必ずしも最適とは限らなくなっています。
外野守備で言えば、「落下地点を先に読む」のか「ボールを見続ける」のか
それは理論の優劣というよりも、“今の前提に対してどちらが合理的か”という問題です。
設計も同じです。
過去の知見を否定するわけではありません。
むしろそれは大切な蓄積です。
ただし、それを無自覚に前提としてしまうと、今の暮らしに対して少しずれた提案になってしまうことがあります。
だからこそ、一度立ち止まって考えます。
それは本当に、今の条件に対して最適なのか。
家づくりには、「なんとなくそういうものだから」という判断が意外と多くあります。
けれど、その“なんとなくの常識”が、いつの時代のものなのかを見直してみることは、とても重要です。
昔からそうだから、ではなく。
今の暮らしに合っているかどうか。
外野でフライを追いかけていた頃の感覚を思い出しながら、そんなことを考えています。
一度、ボールから目を離すのか。
それとも、最後まで見続けるのか。
設計もまた、その選択の連続なのだと思います。
マロングラッセ
先日、数年ぶりに関東に住む友人と会いました
その時に、お土産としていただいたマロングラッセが、とても印象的でした
しっかりとした歯触りと、崩れない形
甘さは強いのに、どこか輪郭がはっきりしている
パッケージには「イタリア産の栗」とあります
そのとき、単純な疑問が浮かびました
栗であれば、日本にもあるはずです
なぜ、わざわざイタリアの栗なのか
調べてみると、その理由は明確でした
和栗は、鬼皮や渋皮との実離れが悪く、加工に手間がかかる
さらに煮崩れしやすく、形を保つことが難しい
つまり、マロングラッセという“用途”に対して、素材として適していないのです
ここで一つ、はっきりすることがあります
素材には適性があるという、ごく当たり前の事実です
ただ同時に、こうも思います
では、その「適していない」という評価は、どこまで絶対なのか
条件を変えればどうなるのか
手間をかければ成立するのか
あるいは、別の価値として成立させることはできないのか
素人の発想は、ときに非効率です
しかし、その非効率の中にしか見えない可能性もあります
これは、建築にもよく似ています
一般的に「難しい」とされる敷地条件や素材
セオリーから外れた選択
それらは排除されがちですが、
丁寧に向き合い、試行錯誤を重ねることで、
むしろ固有の魅力へと転じることがあります
重要なのは、知識そのものではなく、
自分の手で確かめた経験があるかどうかです
和栗でマロングラッセを作る
おそらく簡単ではありません
それでも一度やってみる価値はある
失敗も含めて、その過程にしか見えないものがあるからです
設計もまた、同じです
机上の理解だけでは辿り着けない答えが、確かに存在しています
植物の力
事務所には2鉢の観葉植物があります。冬の寒さが厳しい地域でもあり、元々観葉植物には向いていないのかもしれないのですが、事務所に緑があると少し気持ちが和らぐのでつい購入したのですが、一つはトネリコ、もう一つはガジュマルです。トネリコは既に数回の冬を経験していて冬に落とした葉が春になるとまた復活を繰り返しています。但し、復活の勢いが徐々に弱くなっている気がします。方やガジュマルはこの冬が2回目の経験です。今シーズンはうっかりと保温対策を怠ってしまったため、現在は完全に葉が落ちてしまっています。さて徐々に暖かくなり再び芽が出るのか?と思いつつ色々調べてみました。
寒い時期、植物は以下のような状態になるようです。
細胞分裂や成長はほぼ停止
呼吸や代謝は最低限だけ維持
水分を減らし、細胞内に糖などを増やして「凍りにくく」する
これはいわゆる「休眠」状態だそうです。
つまり「死んでいる」のではなく、極限まで活動を落として耐えている状態なのだとか
■ 復活するケースもある
次の条件が満たされると、春に再び活動を始めるそうです。
細胞が凍結破壊されていない
根や形成層(成長点)が生きている
エネルギー(デンプンなどの蓄え)が残っている
たとえば:
落葉樹(冬に葉を落とす木)はかなり強い
多年草(毎年芽を出す草)も地上部が枯れても地下は生きている
■ 枯れてしまうケース
一方で、次のようなケースでは回復できないとのこと
細胞内の水分が凍って膜が破壊される(=凍害)
乾燥しすぎて細胞が壊れる
根が凍って水を吸えない
低温がその植物の耐性を超える
この場合は見た目は同じ「枯れ」でも不可逆(完全死)になるそうです。
■ 種類による違い(かなり大きい)
これは非常に重要なポイントで
1. 寒冷地型(強い)
シラカバ、モミなど
マイナス数十度でも生存可能
細胞レベルで凍結耐性を持つ
2. 温帯型(中くらい)
サクラ、カエデなど
冬は休眠する前提で設計されている
3. 熱帯・亜熱帯型(弱い)
観葉植物、バナナなど
10℃前後でもダメージ
0℃付近で致命的
■ 個体差もある
当然ですが同じ種類でも個体差はあるとのこと
日当たり・風当たり(環境ストレス)
水分状態(乾燥 or 過湿)
栄養状態
年齢(若木は弱いことが多い)
つまり、同じ条件でも「生き残る株」と「枯れる株」が出るのは普通なのだそうで
果たして、当事務所の植物達は今後、どうなるのか?応急手当はしているのですが、もう少し様子をみてみたいと思います。
建築で使う杉やヒノキも植物であることに変わりありません。
建築的な視点で見ると、植物はかなり合理的です。
葉を落とす → エネルギー消費と蒸散を削減
地下に退避 → 温度変化を緩和
糖を増やす → 不凍液の役割
つまり、「冬仕様に可変する生体システム」です。
特別な装置で無くDNAに組み込まれたシステムで環境に対応する素晴らしい力を我々も、建築づくりにおいて少し分けていただいています。
Y字の枝が呼びかけてくる
剪定した後の栗園は伐った枝の山があちこちに散らばっています。
このままでは、これから先のシーズンで草刈りの邪魔になるため、この枝の山を放置しておく訳にはいきません。伐った枝を、柴や薪に分解する作業を先日行いました。
手を動かしながら仕分けていると、ふと、少し太めの枝をそのまま残している自分に気づきました。
二股に分かれた、Y字の枝です。
特別きれいなわけでもない、真っ直ぐでもない
それでも、なぜか捨てずに手元に置いておきたくなる。
理由を考えると、その「かたち」にある気がします。
Y字という形は、不思議と安定しています。
何かを支えることもできるし、引っ掛けることもできる。
受け止めるための形、と言ってもいいかもしれません。
子供の頃、この形の枝を見つけては、先にゴムを結び、石を飛ばして遊んでいました。
いわゆる手作りのパチンコです。
あるいは、地面に差し込めば釣竿を立てる道具にもなる。
少し工夫すれば、庭の支柱や、簡単な道具掛けにもなる。
面白いのは、最初から用途を決めていたわけではないことです。
この形を見たときに、「何かに使えそうだ」と感じる。
そして後から、使い道が立ち上がってくる。
設計も、どこか似ているように思います。
敷地の形、周囲の環境、光の入り方や風の抜け方。
それらはすでにそこにある「条件」です。
設計というと、何もないところから新しいものを生み出すように見えますが、
実際には、その場所にあるものを丁寧に読み取ることから始まります。
与えられた条件の中に、すでにヒントは含まれている。
それをどう捉え、どう引き出すか。
Y字の枝を手に取って、使い道を探す感覚に、少し似ています。
既製品は、用途があらかじめ決まっています。
一方で、自然のものには、決まった使い道がありません。
だからこそ、「どう使うか」をこちらに委ねてくる。
言い換えれば、暮らしの中に余白を残してくれる存在です。
今回残したY字の枝も、まだ何に使うかは決まっていません。
けれど、手元に置いておこうと思っています。
そのうち、ふとした瞬間に、
「あ、これだ」と思える使い方に出会う気がするからです。
少しだけ、用途の決まっていないものを持っておく。
そんな余白が、暮らしをほんの少し豊かにしてくれるのかもしれません。
読了
読み終えました、笠井恵理子さん著の「室温を2度上げると健康寿命は4歳のびる」
著者はジャーナリストですが、有識者への取材やデータに基づきエビデンスのある内容が盛り沢山でした。
私もテーマの一つとして掲げている「住まいと健康の関係」について少し学ばせていただきました。私が知っていたデータも幾つかありましたが、そのデータの基はこの本に登場する有識者によるものでした。
うっかりさんが、その理論で行くと南国の人は皆長生きするのか?と言ったことをクチコミに書き込んでいましたが、ちゃんと文章を読めば単なる「寿命」と「健康寿命」の違いを冒頭に書いてあります。きちんと日本語を理解しなければいけません。
サブタイトルには少し怖い文言も並んでいますが、興味がおありの方は、ご一読下さいませ。
子供部屋は広さより距離感を大事にする
家づくりの打合せをしていると、よく話題に上がるのが「子供部屋の広さ」です。
「将来のことを考えて、少し広めにしておいた方が良いでしょうか?」
そんなご相談をいただくことは少なくありません。
もちろん、広い部屋が悪いわけではありません。
ただ、実際の暮らしを見ていると、子供部屋は必ずしも広くなくても十分成立すると感じています。
小さいうちは、子供部屋よりリビング
あくまでも一般論ですが、しかしベネッセなどの調査結果もあります。
それは、年齢が低いうちは、子供部屋で勉強するよりも、
リビングで勉強する方が学習習慣を作りやすいと言われています。
リビング学習が有利と言われるのには、いくつか理由があります。
・保護者の目が届く
・勉強を始める時間を決めやすい
・だらだら先延ばしにしにくい
・困った時にすぐ声を掛けられる
つまり、学習環境として重要なのは、
**「広い個室」よりも「家族の気配がある場所」**だったりします。
成長すると、個室が役に立つ
もちろん、年齢が上がると状況は変わります。
思春期になると、
集中するための場所や、自分の時間を過ごす場所として
個室が有効になることも多いです。
ある研究結果では学年が上がるほど親は子供に、より大きな自立性を与え自立支援が高いほど標準テスト・評定・宿題完了度が高いとの報告もあるようです。
ただし、ここで一つ注意があります。
個室をあまりに快適に作り過ぎると、
子供はその部屋に閉じこもりがちになります。
スマホ、ゲーム、漫画など自己管理能力の弱い子には集中空間ではなく誘惑空間になりやすい環境が整うと成績も低くなるそうです。勿論、成績だけが人をつくる指標ではありません。
そのような空間になると、家族と過ごす時間は自然と減っていきます。
個室が有利なのは静かで誘惑が少なく自分でペースを作れる場合だそうです。
子供部屋は、
家族の距離を調整するための空間でもあります。
空間は、平面だけでなく立体で考える
子供部屋を計画するとき、
つい「床面積」だけで考えてしまいがちです。
しかし空間は、立体的に使うことができます。
例えば
・ロフトベッド
・収納付きのベッド
・天井高さを活かした収納
・上下段の使い分け
こうした工夫をすることで、
コンパクトな部屋でも十分に機能します。
実際、私が設計した住宅でも
設計当初は3人兄弟だったご家庭に、後からもう1人家族が増えたケースがあります。
その時も増築することなく、
空間の立体活用によって暮らしが成立しています。
子供は、大人が思っている以上に
与えられた環境に順応する力を持っています。
子供部屋は「将来の空き部屋」になる可能性もある
もう一つ、家づくりで大切な視点があります。
それは、
家族が家で過ごす時間は、意外と長くないということです。
子供はいずれ巣立ちます。
そうすると、
広く作った子供部屋が
そのまま使われない空間として残ることも珍しくありません。
コンパクトにすることは、暮らしの合理性でもある
最近は、物価高騰の影響もあり、
建築費が以前より大きく上がっています。
「出来るだけ広くしたい」という気持ちは
もちろんよく分かります。
ただ、子供部屋を少しコンパクトにまとめるだけでも
建築コストを抑えることができます。
その分、
・断熱性能を高める
・窓の質を上げる
・リビングを少し豊かにする
そんな使い方をする方が、
家全体の満足度は高くなることも多いのです。
子供部屋は「余白」でいい
子供部屋は、
最初から完成された空間である必要はありません。
むしろ
少し余白があるくらいがちょうどいい。
成長に合わせて
使い方が変わり、
家具が変わり、
時間の過ごし方が変わる。
そんな変化を受け止める場所として、
子供部屋は存在しているのかもしれません。
広さよりも、
家族の距離感をどう作るか。
子供部屋の計画は、
そんな視点から考えてみると、
少し違った答えが見えてくるかもしれません。
震災のたび、建築は問い直される
1日遅れとなりましたが「3.11」を偲び、ブログに記させていただきます。
田んぼの間を縫うあみだの道を
数台の車が必死に逃げていました。
そのすぐ後ろから、
黒い水が押し寄せてきます。
「逃げろ、逃げろ。」
テレビの前で、そう祈ることしか出来ませんでした。
15年前の先日、
東日本大震災の日のことです。
その時、私は事務所でお客様と打ち合わせをしていました。
打ち合わせが終わり、
いつものようにラジオをつけると、
大きな地震があったというニュースが流れてきました。
ただ、その時丹波では
揺れをまったく感じませんでした。
遠くで起きた出来事のように
最初はどこか現実感のないまま聞いていたのを覚えています。
気になってテレビをつけると、
そこに映っていたのが、
津波が田んぼを飲み込もうとしている光景でした。
私は阪神淡路大震災で被災はしていませんが、
当時、大阪の豊中に住んでいたため震度5の揺れを経験しています。
建物がきしむ音。
家具が揺れ、食器が床に落ち、割れる音。
あの時の空気は、
今でも身体が覚えています。
建築の世界では、
大きな震災が起こるたびに
国の基準が少しずつ見直されてきました。
1981年には新耐震基準が設けられ、
阪神淡路大震災の後には
木造建築の規定にも見直しが入りました。
そして昨年2025年には、
いわゆる4号特例が廃止されました。
木造住宅であっても、
安全性の根拠を示すことが求められる時代になりました。
建築は、
震災が起きた後に評価される仕事です。
普段は意識されることがなくても、
いざという時に人を守れるかどうか。
その結果が、
建物の本当の価値を決めるのだと思います。
耐震性能というと、
耐震等級という数字で語られることがあります。
もちろん大切な指標です。
ただ、建物の強さは
数字のゲームではありません。
壁の配置
建物のバランス
構造の考え方
そうした設計の積み重ねが
建物の安全性を大きく左右します。
だから私たちは、
数字だけではなく、
建物全体の構造バランスを大切に設計しています。
テレビに映っていた、
あの田んぼの一本道。
あの車が無事に逃げ切れたのか、
今でも分かりません。
ただ、あの映像を見るたびに思います。
家は、美しいだけでは足りません。
人を守れてこそ、建築だと思います。
私たちは丹波で住宅の設計をしています。
暮らしを支え、いざという時には人を守る建築。
そんな家を丁寧に考え続けていきたいと思います。
Youtube にて公開されています
0303青垣町東芦田の芦田建築設計事務所 代表 芦田成人にお話しを伺いました
先日、ご縁をいただきまして地元のコミュニティFM 805 たんば に出演させていただきました。
パーソナリティーの、こてつさん のお人柄もあり、とても楽しい時間を過ごすことが出来ました。
私も、ずっと話し声が笑ってしまっていまして、おかげ様で緊張することなく話すことができました。
実際に、自分の話し声を客観的に聴く機会もないので不思議な感覚です。
宜しければ、御拝聴下さいませ。
詳しくは、上記リンクからお願い致します。
言葉もまた、納まりで決まる
先日、ご縁をいただき、地元のFM局に出演させていただきました。
ラジオ出演そのものは今回で2度目でしたが、この番組に出させていただくのは初めてでした。
けれど、パーソナリティの方のお人柄のおかげで、妙な緊張をすることもなく、
自然に会話をすることができました。時間としては、とても楽しいものでした。
ただ、話している本人が楽しかったことと、
番組として聴きやすかったことは同じではありません。
話し手の手応えほど、当てにならないものもないのかもしれません。
その点、家で聴いていた妻が「聴きやすくてよかった」と言ってくれたのは、ありがたい感想でした。
自分では分からないものを、外側から返してもらえたからです。
今回、ひとつだけ強く心に残ったことがあります。
普段よく聴いているAM番組で、ゲストの方が最後に
「ありがとうございました、とても楽しかったです。」
と話されていました。
たったそれだけの言葉です。
けれど、その短いひと言で、その人がその場をどう受け取っていたのかが、きれいに伝わってきました。
内容以上に、終わり方の良さが印象に残りました。
私は今回、それができませんでした。最後は「ありがとうございました」で終わりました。
感謝していなかったわけではありません。
楽しくなかったわけでもありません。
けれど、思っていたことを、言葉としてきちんと納めるところまで至らなかった。
そこに、自分の未熟さがあると思いました。
建築も同じです。
設計は、考え方があるだけでは成立しません。
空間の骨格を考えることも大事ですが、それだけでは人には届かない。
寸法を決め、線を引き、見切りを納め、触れる部分の精度を上げ、最後まで整えて、ようやく設計は空間として伝わります。
思想があることと、設計になっていることは別です。
気持ちがあることと、伝わることが別であるのと同じです。
ラジオの最後のひと言は、小さなことのようでいて、実は小さくありません。
終わり方には、その人の姿勢が出ます。
設計で言えば、納まりにその人の仕事が出るのと同じです。
全体の構想をどれだけ語っても、最後の詰めが甘ければ、仕事の輪郭はそこでぼやけます。
おそらく、人が受け取っているのは、立派な説明そのものではなく、こうした細部の整い方なのだと思います。
空間も、言葉も、最後にどのように着地したかで印象が決まる。
むしろ最後の数秒、最後の数ミリに、その人の仕事は宿るのかもしれません。
今回の出演は、楽しい時間であると同時に、設計者としてあらためて考えさせられる時間でもありました。
このたびは、貴重な機会をいただきありがとうございました。
設計も言葉も、最後まで表現できてこそ人に届くのだと思います。
※ 写真と本文は直接関係ありません。
既製品は使う、だが任せない
既製品を使うこと自体は、まったく悪ではありません。
むしろ性能が安定していて、納期も読みやすく、価格も比較しやすい。
住まい手にとっても安心材料になります。
だから私は「既製品はダメ」とは言いません、
けれど同時に、既製品“だけ”で住まいをつくろうとすると、
そこには設計という行為が入り込む余地が急に小さくなります。
なぜなら、既製品中心の住まいは、突き詰めると「組み合わせ」になっていくからです。
カタログから選び、色を揃え、サイズを当てはめ、雰囲気を整える。
これはコーディネートとして大切な仕事ですが、
私が建築設計者として向き合いたい領域とは少し違う。
設計とは、空間そのものの精度と必然性をつくる仕事だからです。
分かりやすい例が、キッチン周りの什器類です。
吊戸棚、カップボード、家電収納、冷蔵庫スペース、ゴミ箱の位置。
既製品で揃えようとすると、どうしても「規格寸法」に支配されます。
ミリ単位の調整ができないため、最後に残るのは“逃げ”のような余り寸法、
たとえば壁と収納の間に、理由のない20mmや35mmが残る。
すると、その小さな余白が、暮らしの中でずっと「なんとなく変」を生み続けます。
掃除がしにくい、埃が溜まる、見た目が締まらない、納まりが曖昧に見える。
たった数センチの話なのに、空間の品位が落ちるのです。
私が考える真の設計は、そこを“数ミリ”で詰めていくことから始まります。
壁の厚み、下地の位置、見切り材の入れ方、天板の出、扉のクリアランス。
数ミリ単位のやり取りを重ねた結果として、空間が「なぜか整って見える」状態に到達する、
そこにディテールが宿ります。ディテールは飾りではなく、数字と納まりの積み重ねが生む必然です。
さらに、素材の問題もあります。
既製品の多くは、ツルツル・ピカピカとした均質な面で仕上げられています。
もちろんそれが似合う空間もありますが、私たちが大切にしたい“本物の木”の
素材感とは相性が難しい場面が出てきます。
木には木目の揺らぎ、触れた時の温度、経年変化があります。
一方で既製品の面は均質で、反射が強く、時間の要素が入りにくい。
両者を同じ空間に置くと、どちらかが浮く。
木の良さを引き立てたいのに、既製品の「完成され過ぎた表情」が
空間の呼吸を止めてしまうことがあるのです。
では、既製品はどこで使うべきか。
答えは単純で、「既製品が空間を支配しない範囲で、性能と合理性を借りる」です。
機器としての信頼性が必要な部分、メンテナンス性が優先される部分、交換が前提の部分。
そこは既製品が強い。
一方で、住まいの印象を決める面、触れる頻度が高い部分、視線が集まる部分、
そして寸法の“最後の詰め”が必要な部分は、設計でつくる。
既製品を活かしながら、既製品に飲み込まれない境界線を引く。
それが設計者の仕事だと思っています。
既製品中心の家は、たしかに早いし分かりやすい。
でも、住まいは「分かりやすさ」だけで出来ていません。
暮らしのストレスは、だいたい“ちょっとしたズレ”から始まります。
そして、そのズレを潰せるかどうかは、数ミリの世界を丁寧に扱えるかにかかっている。
芦田成人建築設計事務所がやりたいのは、カタログを上手に並べることではなく、暮らしの中に残る違和感を、設計で静かに消していくことです。
既製品は敵ではありません。
ただ、主役でもない。主役は暮らしで、設計はその暮らしが気持ちよく続くための「精度」をつくる仕事。
だから今日も、数ミリを詰めています。